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【韓国の本性】
李承晩ラインで日本漁民が味わった塗炭の苦しみ 射殺、餓死
2014.08.26
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/
日韓関係の悪化について、韓国側は「日本の右傾化が原因」「加害者と被害者の関係は1000年経っても変わらない」などと、一方的に日本を批判している。だが、歴史を振り返ると、韓国はこれまで、日本に理不尽かつ非道な行動・対応を取り続けてきた。韓国が口を閉ざす「理不尽な真実」について、元大手商社マンで日韓問題研究家の松木國俊氏が迫る。
「李承晩(イ・スンマン)ライン」。それは、日本の主権回復を承認するサンフランシスコ平和条約発効直前の1952年1月、韓国が海洋資源を独占し、領土を拡張するため、島根県・竹島を取り込んで、一方的に公海上に引いた軍事境界線・排他的経済水域である。
いかなる国際法を持っても正当化できるものではなかったが、日本政府は憲法第9条などに縛られて手も足も出せなかった。これより13年にわたって、日本漁民は、韓国警備艇による射殺、体当たり、拿捕(だほ)、抑留、餓死という塗炭の苦しみを味わった。
日韓漁業協議会発行の『日韓漁業対策運動史』に、当時の詳しい記録が残っている。韓国の暴虐を風化させないため、あえて、その悲惨な過去を振り返ってみる。
韓国警備艇は、李承晩ラインの外側を航行中の日本漁船にまで見境なく襲い掛かり、罪のない日本漁民を拿捕して釜山港へ連行した。棒でたたくなど残虐な拷問を加え、自白を強要し、文明国では考えられない人権を無視した一方的な裁判で判決を言い渡した。
獄中生活は悲惨を極めた。雑居房には20人前後が押し込められ、手足だけでなく体も重ねあわせて寝なければならなかった。食事の不潔さは言語に絶し、カビの生えた麦、腐敗した魚は度々で人間の食べる物ではなかった。ほぼ全員が栄養失調状態となって死線をさまよい、ついに餓死者まで出たのだった。
54年以降は、「刑期」を終了した者さえ釈放せず、韓国側は抑留者を「人質」にしてさまざまな要求を日本に突き付けてきた。帰国の希望を奪われた抑留者は、肉体的にも精神的にも限界を超え、狂乱状態になるものもあったという。残された家族にも、重い経済的、精神的負担が発生した。堪えかねて精神を病み、自殺した妻もいた。
日本漁民を守るべき海上保安庁の巡視船は「不測の事態を避ける」という理由で砲を撤去させられていた。拿捕されそうな日本漁船を救出するため、丸腰で韓国警備艇との間に割り込み、自ら銃弾を浴びながら漁船を逃す以外になかったという。
65年に日韓基本条約や請求権・経済協力協定、日韓漁業協定が締結されるまでの間、韓国の不法拿捕により抑留された日本漁民は3929人、拿捕時の攻撃による死傷者は44人、物的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。
にもかかわらず、韓国は現在に至るまで一言の謝罪も補償もしていない。それどころか、朴槿恵(パク・クネ)大統領は高飛車な態度で、反日発言を続けている。日本人は、韓国の非道な行為で無念の死を遂げた同胞のことを、決して忘れてはならない。
■松木國俊(まつき・くにとし) 1950年、熊本県生まれ。73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。直後から韓国担当を務め、80〜84年、ソウル事務所に駐在する。秘書室次長、機械部次長を経て、2000年に退社。松木商事を設立する。韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」幹事長。著書に『ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った』『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)など。
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韓国に拿捕された船長
73日間毎日丸麦1合と大根葉の塩漬2回
領土を守る行為とは、その土地に日の丸を掲げ、「ここは日本領だ」と叫ぶことだけではない。むしろ、名もなき市井の人々がその土地に築いてきた生活の営みこそ、「日本領土」たる揺るぎなき根拠である。
ここでは竹島をめぐるエピソードを紹介しよう。
韓国が竹島を不法占拠して以降、 韓国側は竹島近海で操業する日本漁船に対して、 銃撃や拿捕を繰り返すようになった。
日韓漁業協議会の調べでは、1965年に日韓基本条約と 漁業協定が締結されるまでに、拿捕された日本の漁船は328隻、 抑留された船員は3929人、死傷者は44人に上った。
1953年9月に拿捕された第28海鳳丸の久保田伴良・船長は 帰国後、国会の小委員会で壮絶な投獄体験を証言している。
済州島周辺を航行中、韓国海軍の巡航艇に 大砲2発を発砲され拿捕された海鳳丸だったが、船長は 小銃を突きつけられた状態で軍幹部に反論し、 警察尋問では拳銃で脅されながら自分の証言と調書の 違いを主張するなど、抵抗を示した。
彼は2か月以上勾留された留置場の様子をこう述べた。
「留置場は1部屋4畳半くらいで 多いときは1部屋10人もおり、 超満員になって寝ることもできなかった。食事は丸麦1合くらいを1日2食、 おかずは大根の葉っぱの塩漬を毎日毎日 73日間も食わされた」
裁判で罰金刑を受けた船長は、 「今後は国際裁判で正当な解決をしてもらうことにして一同涙をのんで翌日判決を承認して」 帰国した。
船長は国会で、 「この事件について考えさせられますことは、我々第一線に働いている漁船船員に対して まだ政府は何ら安心して働けるような 保護対策のないことであります」と訴えている。
日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。おりしも国交正常化交渉が山場を迎えていたころ、日本は岸内閣が外交交渉にあたっていた。
韓国側に拉致された日本の漁民は岸首相のお膝元である山口県や中国地方の人たちが圧倒的に多かったため、岸首相としては、地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。
一方、日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。韓国側としては、それを持ち出されたら困る。何とか、日本側に搬出させないためにはどうしたらよいのか。
そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。
「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。
現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい!
在日韓国人の法的地位を認めなさい! あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい! という外交交渉のカードに韓国は利用した
【新刊】鄭鍾賢(チョン・ジョンヒョン)著『帝国大学の朝鮮人』(ヒューマニスト刊)
日本の敗戦後に祖国へ戻ってきた大韓民国臨時政府の要人たちは、建国の情熱こそ燃やしていたが、これを支える国家運営案や行政組織は持たなかった。そんな彼らの目に、総督府出身の朝鮮人官僚の姿が入ってきた。1945年12月17日、臨時政府の内務部長・申翼熙(シン・イクヒ)を委員長に「行政研究委員会」が発足した。総督府の高等文官出身者およそ70人が委員会に加わった。
申翼熙が彼らの前で演説した。「愛国とか救国とか言って倭賊とは妥協せず、日本のやつらをつかまえたいと、右も左も分からずでたらめに動き回っていた人々、なので私自身、行政についての能力や手腕は毛ほどもないのは事実です。仮に、皆さんは(中略)いささか親切を倭人に示したとしても、解放された祖国に献身努力して建国の基礎と功労を打ち立てることにより…」
解放後、窮地に陥っていた旧総督府関係者に降りてきた「救いの縄」だった。このうち10人は、憲法草案を作る専門委員としても活躍した。中心人物は、日本が作った帝国大学各校の法学部出身者。東京帝大出身の高秉国(コ・ビョングク)、任文桓(イム・ムンファン)、京都帝大出身の盧竜鎬(ノ・ヨンホ)、京城帝大出身の金竜根(キム・ヨングン)、兪鎮午(ユ・ジンホ)、尹吉重(ユン・ギルジュン)の計6人だ。帝大の卒業生らは親日だけでなく建国にも、このように強く影を残した。北朝鮮も同様だった。北朝鮮の憲法を起草した崔容達(チェ・ヨンダル)は京城帝大法文学部を卒業し、金日成総合大学の創立を主導したチョン・ドゥヒョンとシン・ゴンヒも帝大を出た。さらに、1954年に発足した大韓民国学術院のメンバー62人のうち39人は帝大出身だ。
10年前に京都で初めて朝鮮人留学生の名簿に接した鄭鍾賢(チョン・ジョンヒョン)仁荷大学教授は、その後、帝国大学で学んだ朝鮮人の留学の実態と、植民地朝鮮および解放後の祖国に及ぼした影響を追跡し、本書を著した。鄭教授が見つけ出した資料によると、日本統治下の朝鮮の青年およそ1000人が、帝国大学に入るため日本本土へ渡ったと推定され、このうち784人が東京・京都・東北・九州など本土の七帝大を卒業した。帝大は京城と台北にも作られたが、朝鮮の青年たちは日本留学を好んだ。彼らは「朝鮮人謝絶」と書きつけられた下宿屋の前で鬱憤(うっぷん)を堪えつつ学んだ。
植民地からやって来た留学生たちにとって、日本は巨大な矛盾の塊だった。留学生らは抗日と親日に分かれたり、あるいは解放されるまで二つの路線の間で曲芸を行ったりした。仁村・金性洙(キム・ソンス)の弟キム・ヨンスも、そうした人物の一人だ。1911年に15歳で関釜連絡船に乗った彼は、21年に朝鮮人として初めて京都帝大経済学部を卒業し、戻ってきた。京城紡織の第2代社長として満州まで事業を拡張、成功した民族実業家となり、利潤を社会に還元した。しかし太平洋戦争末期に日本が強要した各種の肩書や献金、そして学徒兵勧誘に動員されたことで解放後は反民族行為特別調査委員会(反民特委)に拘束され、無罪放免されるという苦難も味わった。一方、同じく京都帝大の史学科に通っていた宋夢奎(ソン・モンギュ)は卒業できずに獄死した。
関東大震災で留学生およそ1000人が犠牲になったが、一方で彼らをかくまったり学費を出してやったりしたのもまた日本人だった。高等文官試験に合格し、総督府の官僚を経て解放後は農林部(省に相当)の長官まで務めた任文桓は、留学時代ひどく貧しかった。日本では人力車の車夫や便所掃除夫などの仕事を転々としつつ高校を卒業し、東京帝大へ進学したが、入学金を用意できず焦っていた。そのとき手を差し伸べてくれたのが、岩波書店の社長・岩波茂雄だった。任文桓を夜勤の社員として採用し、給与のほか夕食を支給して、休暇の時期になると別荘を勉強部屋として開放し、卒業式で着る服までプレゼントした。
朝鮮総督府も学資を支援した。「死の賛美」を歌った尹心悳(ユン・シムドク)をはじめ、育種学者の禹長春(ウ・ジャンチュン)、後にソウル大学総長となる権重輝(クォン・ジュンヒ)などだ。著者は禹長春の例を挙げて、官費留学生を親日派と呼ぶことに疑問を投げ掛けた。父親の禹範善(ウ・ボムソン)は閔姫殺害事件に加担した後、日本へ逃亡したが、禹長春は朝鮮へ戻って韓国農業の基礎を固め、1959年の臨終の際には「祖国は私を認めた」という言葉を遺した。
帝大は親日エリートの養成所にして、独立運動と建国の水源地でもあった。著者は「帝国大学という知識制度に関する近代韓国の経験を全て『悪』として道徳化し、それをえぐりだせば問題が解決するかのように考えるのは幻想」と指摘した。392ページ、2万ウォン(約1870円)。
【随想】
親日派も独立運動家も育んだ「帝国大学」の二つの顔 たしかに事実だ。では朝鮮人学生をその二つに分けたものとは何だったのか。いや一人一人の中でこの二つのものが生じたに違いない。結果として親日派にも独立派にもなったろうが、多くの者にとってどちらの心の声もあったに違いない。人生は二者択一、三者択一であろうが、心はそうではない。択一以外の他は偽物などと同胞を卑しめるな。韓国民に望むことはそれだ。日本の強さは明治の時にも見ることが出来る。尊皇攘夷というが、彼らの中には吉田松陰のような開国攘夷もいた。勤皇派も佐幕派も共に勤皇であったし愛国あった。このことに異を挟むことは誰にも出来ぬ。明治政府は薩長土肥と非難されが国家としてみた時にそのようなことは言えぬ。福沢諭吉、勝海舟など隠然として権威も影響力もあった。韓国の如く村八分されたり、取り締まられたり、子孫が財産没収されることもない。その理由は我が国には「天皇」「日本国」というアイデンティティが建国の肇から散在しているからだ。
韓国は未だにアイデンティティを作れないでいる。そこが韓国では歴史が積み重ならない原因で最大の弱点だ。
故・金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相は回顧録の中で「韓日国交正常化交渉」を自らの政治人生で最も記憶に残る出来事として取り上げている。金鍾泌氏は「民主主義は血を食べる前にパンを食べることで育つ」との考えを示した。「民主主義の恩恵を受けるにはまず経済建設」という信念故に「李完用(イ・ワンヨン)以上の売国奴」という非難も甘受したという。当時の韓国政府は学生らによる大規模なデモや野党の激しい反対を抑え、1965年に韓日基本条約を締結した。李明博(イ・ミョンバク)、孫鶴圭(ソン・ハッキュ)、金徳竜(キム・ドクリョン)、李在五(イ・ジェオ)などの政治家たちは当時、学生デモの先頭に立ち、警察に身柄を拘束されている。
この韓日基本条約で結ばれた四つの協定の一つが請求権に関するものだった。韓国政府はこれによって日本から「無償3億ドル(現在のレートで約320億円、以下同じ)、長期低利2億ドル(約220億円)相当の物資」を受け取った。韓国の輸出総額が年間2億ドルにも満たなかった時代のことだ。この資金によって浦項製鉄ができ、京釜高速道路などが建設された。
請求権協定には強制徴用被害への保障についても明記されている。強制徴用者を103万人と計算し、個人の請求権については「国として請求し、個人については国内で対応する」という内容だ。被害者に代わって資金を受け取った韓国政府が、個別に保障し解決するという意味だ。ところが日本から受け取った資金のほとんどは国内での開発に使われ、被害者に支払われたのはわずか92億ウォン(約8億5000万円)だった。2005年に盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が立ち上げた官民合同委員会がこの問題を再び検討し、7万2631人に総額6200億ウォン(約570億円)の慰労金が支払われた。
盧武鉉政権下のこの委員会も、請求権協定で日本から支払われた3億ドルを「徴用被害の補償」として認めたのだ。この委員会は当時のイ・ヘチャン首相が委員長を務め、文在寅(ムン・ジェイン)民政首席もメンバーに入っていた。個人の請求権問題はこのようにして整理された。その後も再び裁判で争われたが、原告の訴えは2012年に高裁で棄却された。ところが大法院(最高裁に相当)がこの高裁判決を覆し「請求権は残っている」との判断を下したため、これが韓日関係の爆弾として復活してしまった。この裁判に大法院判事として関与した金能煥(キム・ヌンファン)氏は「もう一度建国する思いで(判決文を)作成した」と回顧しているが、これによって韓国政府はジレンマに陥った。判決に従えば国際的な合意を破らねばならず、かといって判決を無視するわけにもいかないからだ。韓国外交部(省に相当)と大法院は最終判決が出るまで意見を交換した。しかし現政権はこのやりとりを「司法壟断(ろうだん、利益を独占すること)」とレッテル貼りしたのだ。
現職のある裁判官が先日、前政権で大法院が強制徴用問題での判決を先送りしていたことについて「外交的解決に向け時間を稼ぐという意味合いがあった」という趣旨の考えを示した。外交問題と司法判断の板挟みとなって頭を痛めた前政権と検察を、文在寅政権が一方的に「積弊」として追い込んだという批判だ。いつまでたっても堂々巡りの韓日関係の悪循環はいつになったら終わるのだろうか。
イム・ミンヒョク論説委員
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※韓国の言う「個人請求権」と「戦犯国・戦犯旗」に関する参考資料
日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 (通称日韓基本条約)
日韓間の外交は外交関係を結ぶ時に大きな問題が発生しているのである。そのことがこの資料から伺うことが出来る。それは大韓民国が李氏朝鮮の正式なに継承者かどうかだ。そのことについてWikipediaは次のように書いている。(一部引用)
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日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(にほんこくとだいかんみんこくとのあいだのきほんかんけいにかんするじょうやく、朝鮮語: 대한민국과 일본국 간의 기본 관계에 관한 조약 (大韓民國과 日本國 間의 基本關係에 關한 條約))は、1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。通称日韓基本条約。
日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄・当時の韓国国家予算の2年分以上の資金提供することで、日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。韓国は日本からの受けた請求権資金・援助金で浦項総合製鉄、昭陽江ダム、京釜高速道路、漢江鉄橋、嶺東火力発電所などが建設されて経済発展した[1] 。韓国政府は日韓基本条約によって日本から受けた資金5億ドル(当時)に含まれた個人への補償金であった無償援助3億ドル分含めて経済発展資金に回したことが発覚して2014年に裁判になったが[2]、日韓請求権協定で受け取った資金を産業育成やインフラ整備など他の目的に使用したことについて「法律に沿うもので違法行為とは見ることはできない」などの理由で原告は棄却や敗訴している[3][4]。
逆に韓国政府や裁判所の日韓基本条約で解決との立場を変えた判決が、2012年や2018年に韓国の最高裁から出されている[5][6][7][8]。
条約交渉までの経緯
「戦勝国」としての請求
「日本国との平和条約」および「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照
1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた[9]。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。
日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。さらに1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した[9]。
また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国[注釈 1])としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された[10][11]。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた[9]。
1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐米韓国大使に対して「日本と戦争状態にあり、かつ1942年1月の連合国共同宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国にはならない」と述べた[10]。梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前から日本と戦争状態にあった」と反論した[10]。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署名国からはずした理由とした[10]。
韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した[9]。兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界大戦中に韓国人で構成された組織的兵力が中国領域で日本軍と交戦した事実は韓国を連合国の中に置かねばならないという我々の主張の正当性を証明している」と主張した[10]。
最終的に、1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は許可されなかった[10]。
一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の朝鮮における日本の公共・私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、対日賠償請求の準備をすすめていた[9]。
韓国の主張に対し日本側は、韓国を合法的に領有、統治しており、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル[12]、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル[13])の返還を請求する権利があると主張した。
しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」には、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とした点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた[14]。
※結論
という訳で、韓国が戦勝国と名乗り日本を戦犯国と言っているのは捏造で、韓国が主張する妄想である。韓国と韓国民が何と妄想しようと自由だが、それは事実ではなく、世界の認識は全く別物。戦犯旗も妄想。大韓民国の言う抗日戦争という歴史が、上海に誕生した臨時政府の李承晩などの誇大妄想癖による捏造である。イギリスもアメリカも、「大韓民国は日本と戦った連合国ではない」と判断を下しているのだ。つまり正統な朝鮮政府は日本の韓国併合により滅びたと言っているのであって、上海の臨時政府の抵抗は李氏朝鮮と無関係の新たな大韓民国建国の抗日史に過ぎない。名前は李氏朝鮮の大韓帝国を名乗って大韓国の復活を目指したが、それは彼らの希望と志であって、世界から見たら大韓民国の建国前史であり、大韓民国は戦後に建国された大韓を名乗る韓民族(=朝鮮民族)の新国家である。そして北には大韓民国を認めず韓国と戦った朝鮮民族(=韓民俗)による朝鮮人民民主主義共和国という戦後建国された独裁国家が存在する。それが現実だ。
(下はWikipediaの大韓民国臨時政府の記事から)
上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、朝鮮半島では天道教系の大韓民間政府や朝鮮民国臨時政府、ほとんど実体を持たない平安道の新韓民国、京城の臨時政府、シベリアに大韓国民議会など独立派の組織が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく[8]。1937年8月、南京において、韓国国民党(金九)・韓国独立党(洪震)・朝鮮革命党(池青天)などの韓国独立運動団体が合流して、臨時政府の基盤となる韓国光復運動団体聯合会が設立された。[2]
【朝鮮併合】 1910年8月29日に「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合して大韓帝国が無くなったという歴史。
2019年07月02日13時50分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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韓国の総合芸術家と言われる「妓生」 |
100年前の三・一運動の時の話だ。ソウル長安(チャンアン)の名が知られた料亭「明月館」には憂国志士もしばしば出入りした。韓国人3人が集まれば日警が目をむいてすごんでいた時期、料亭は比較的出入りが自由だったので独立志士は明月館を連絡場所に使った。人力車をひく俥夫の中には苦学生が多く、彼らは愛国志士のつなぎ役としても活動した。時には妓生と恋に落ちたり…。
明月館の当代最高の妓生イ・ナンヒャン(1900〜79)は半世紀前をこのように振り返った。「お金を湯水のように使ったり、前職の位が高いからと言って妓生の心をつかめるわけではなかった。愛国を知るようになった妓生の耳にも独立万歳の余韻が響き、愛国志士や憂国青年に従ういわゆる思想妓生が生まれた」(中央日報71年1月18日付『残したい話』)。今年2月に公開された映画『抗拒:柳寛順(ユ・グァンスン)物語』にも独立万歳を叫び投獄された水原(スウォン)妓生キム・ヒャンファのエピソードが登場する。主体的女性としての妓生に改めてスポットライトを当てた。
先週土曜日午後、全羅北道井邑市(チョルラブクド・チョンウプシ)古宅文化体験館(旧券番文化芸術院)にイ・ナンヒャンの歌曲『草堂の後ろに』がゆったりと流れていた。管弦楽伴奏とともに歌われた歌曲は、朝鮮時代に生まれた伝統声楽曲だ。「草堂の後ろにやってきて座りソッチャクソッチャク鳴く鳥よ〜〜、客窓に座りソッチャクソッチャク鳴く鳥よ〜」。まさにその時、蓄音機から流れるイ・ナンヒャンの声が軒の下にぽたぽた落ちる梅雨の雨音と重なり私の切なく心を震わせた。
この日の行事は国楽評論家キム・ムンソン氏が進めた。「芸妓たちの足跡をたどって」をテーマにした人文学講座だ。「券番の音楽を語る−ソウル・平壌(ピョンヤン)の芸能人」が3時間行われた。今までは酒や笑いなど安っぽいイメージだけが目立った過去の芸能人の名誉回復を試みた。券番は日帝強占期に作られた妓生組合の名称だ。過去20年余り、券番の世界で活躍した芸能人100人余りと直接会ったキム氏の特講は妓生にまつわる偏見を打ち破るには充分だった。歌と踊りはもちろん、詩書画や各種礼法も学んだ総合芸術家「妓生」を復活させた。
たとえば、妓生になりたければ平均3年の教育過程を経なければならなかった。芸妓と言われるためには厳格なコースを踏まなければならなかった。傑出した歌い手や踊り子を多数輩出した平壌の妓生券番の場合、1〜3学年別に週に6日、一日6時間余りの授業を受けた。歌曲・書画・時調(定型詩)・算数・舞踊・作文など科目が幅広く、時には西洋音楽も含まれた。ソウル・釜山(プサン)・大邱(テグ)・光州(クァンジュ)・開城(ケソン)・海州(ヘジュ)など地域券番の事情も類似していた。今なら韓国芸術総合学校、あるいは大型芸能企画事務所といえるだろう。
講座が開かれた古宅文化体験館も格別だった。2007年光州広域市にアジア文化殿堂が入り、取り壊された光州券番7間分の建物を移転させた。これ以上使用できない部材は新しいものに変えたが、1928年に設立された光州券番の本来の姿を今に伝えている。現在、韓国で唯一残る券番建物だ。伝統芸術の継承を目的に2015年国費・市費21億ウォン(約1億9600万円)を投じて券番文化芸術院の看板を掲げたが、開館翌年、市当局が一方的に古宅文化体験館という微妙な名称に変えたという。それだけ韓国の中で妓生に対する否定的な認識が深く根付いているという証拠だ。先も長く、やるべきことは多いという意味にもなる。
券番芸術院の院長を6年間務めてきたコ・ヘソン氏が声を高めた。韓国舞踊を専攻したコ氏は券番建物を復元する責任を負ってきた。「開院直後、市会議員がやってきて酒を飲んでゴーストップ(韓国の花札遊び)をすると話した。すぐに断ると、非常に憎まれることになった。町の人々は鶏の水炊き(タッベクスク)の店を開こうとまでした。20世紀の芸術の産室に対して、このようなひどい扱いをしても構わないということなのだろうか。ときに血が逆流する」。
妓生の地位が急落したのは60〜70年代の「キーセン観光」が決定的な役割を果たした。「妓生=売春=恥部」のイメージが固まった。芸術・教養の象徴が一日で蒸発した。「歌を売っても体は売るな(売唱不売淫)」という朝鮮時代以降、妓生の誇りだったというのに、だ。コ氏の訴えが耳に何度も迫ってくる。「掌で空を遮ることはできない。暗い過去もある。だが、私たちのソリ・踊りを否定できるだろうか。妓生がいなかったなら、誰がこのような芸術魂をこうして守ることができただろうか。先輩芸能人に顔向けできない」。事実、遠く見る必要もない。日本は芸者を世界的文化コンテンツで育てたではないか。韓国もこれからは自信を持って妓生を振り返るときがやってきた。わざわざ自分から縮こまる理由はない。
パク・ジョンホ/論説委員
【随想】
私は日本の花魁のことも芸者のことも朝鮮の妓生のことも知らない。ただ国家や民族の生命や社会というものはそこに生きとし生けるもの全ての者の織りなす結果だと思っている。例えばここには「妓生=売春=恥部」なんかではないと書いてあるが、売春婦であつても私たちと共に日本社会を為す一員だと思っている。
日露戦争を前にして日本軍はシベリアに諜報員を派遣して情報の収集に努めた。彼らが驚いたことにイルクーツクやチタにすら売春婦たちが売られて来ていたのである。しかも彼女たちは軍用トラックが何台通過したかとか軍人や武器を乗せた貨車がどれだけ通過したとかの情報収集に協力してくれた。バレたら当然処刑される恐れがあるのにだ。我が国の歴史はそういう誠が重なって成立しているのである。
我々はこの誠を尊ばねばならない。誠ある者を見下すことがあってはならない。
1950年6月28日、夜中の雨は降ったりやんだりしていたが、大砲の音はやむことがなかった。夜明けを迎えるころ、戦闘はますます激しさを増し、大砲の音と銃声がまるで豆でも炒めたかのように聞こえてきた。しばしばそう遠くないところから悲鳴も聞こえた。もう市街戦が始まったようだ−−。ある方が送ってくれた本を放置したままだったが、6月になって義務感に駆られるように読了した。6.25(朝鮮戦争)当時の金聖七(キム・ソンチル)ソウル大史学科教授の日記を集めた本「歴史の前で−ある史学者の6・25日記」だ。ソウル市の貞陵に住んでいた金教授はソウル市民の大半と同様、疎開することができないまま、人民軍統治下のソウルで3カ月を過ごさなければならなかった。その日記には人民軍統治下のソウルの実情がありのままに書かれている。
「弥阿里(ミアリ)峠を車よりも大きいものがゆっくりと下りてくる。大砲が当たってもびくともしないという北の戦車ではないか。敦岩洞の通りにはおかしな軍服を着た軍人たちが隊列を組んで行進している。世の中はひっくり返ってしまった。我々は否応なく一夜のうちに大韓民国ではない別の国の庶民になってしまったのだ」
金教授の日記によると、南侵3日目の6月28日、既にソウルの通りでは赤旗を振り、万歳を叫ぶ人々が現れた。金教授は「その中には前日まで(右派の)大韓青年団の腕章を付けていた青年もいた」と書いた。学校に人共旗(北朝鮮国旗)がはためき、7月初めには各家庭に人共旗が掲げられ、塀には「人民共和国万歳」「英明な金日成(キム・イルソン)将軍万歳」「スターリン大元帥万歳」といった壁新聞が張られた。男女の学生らが人民共和国支持のデモを毎日のように行った。大韓民国の長官、学者がラジオに出演し、「李承晩(イ・スンマン)逆徒」を非難した。
金教授は「自分も赤と青のインクで人共旗を描き始めた。妻と見つめ合って笑った。一朝一夕で別の国旗を描かなければならない状況だった」と書いた。そして、「日帝時代(日本による植民地支配時代)にサランバン(家の主人の居間)の壁に太極旗を描いて張り、幼い心を躍らせたことがあった。その太極旗を破って焼き捨てた母のほおに二筋の涙が流れ、自分はその夜、巡査に首筋をつかまれる夢で目が覚めた」と振り返った。多くの市民がそんな太極旗を捨て、別の国旗を描かなければならなかった。
金教授は人民軍がよく訓練されており、規律もあるように見えたという。「家を出た兄弟が故郷を尋ねたようだった」とも書いた。しかし、時がたつにつれ、彼らのたちの悪さ、残忍さ、容赦なさ、虚偽宣伝、扇動にうんざりした。金教授は明倫洞での人民裁判の話を書いた。
「機関短銃を背負った人民軍が青年数人を連れてきて、群衆に向かって反動分子かと尋ねた。皆が呆気にとられる中、1−2人が悪質な反動分子だと言うと、容赦なく銃殺した」
金教授はこのころのソウルで最大の問題は食料不足と幼い学生の義勇軍動員、一般市民の突然の「転出」だったという。教室で誰かが「行こう」と言うと、誰も反対できずに結局戦場に送られた。保護者は地団駄を踏むだけだった。突然党の指示だといって、無計画に他地域に転出させられることもあった。ほとんど死ねと言われるに等しい衝撃だった。ソウル大教授は「過去の清算」だとして、「建設隊」に志願するよう求められた。
人民共和国はあらゆる改革とやらを実行した。8時間労働制、性別・国籍不問の均一賃金制、労働保険制度、妊婦保険制度などだ。実情は真逆で、ただの宣伝、扇動にすぎなかった。ソウルの左派政党、左翼系新聞は自分たちの世の中が来たと思いきや、真っ先に消え去った。勤労人民党は跡形もなく消え、教職員労組も解散させられた
7月が過ぎ、ソウル市民の人民軍に対する評価は終わったようだ。自らを「グレー分子」と呼んだ金教授は「米軍機がソウルを爆撃し、数多くの死傷者が出ても人々は飛行機を待っている。一種の希望を抱いている。軍や警察の家族ばかりがそれを望んでいるわけではない」と書いた。竜山に爆弾が落とされているのに、ある女性が屋根の上で米軍機に向かって白いタオルを振ったという。金教授を尋ねてきた仏文学の孫教授は「市民が大韓民国に対する忠誠心にこれほど燃えたことはなかったのではないか。人民共和国を経験し、骨身にしみて大韓民国が懐かしい」と言った。
9月16日には貞陵でもかすかに米軍と国軍による砲声が聞こえ始めた。金教授は「あまりに強烈な期待で興奮して眠れなかった」と書いた。21日には赤い腕章をした人々が荷物をまとめ始めた。23日には弥阿里峠を北に向かう人が絶え間なかった。28日には飢えたソウル市民が人民軍の軍需物資を略奪した。10月6日、金教授はしまっておいた太極旗を再び掲げた。
しかし、戻ってきた国軍に対する金教授の評価は半分否定的だ。「酒に酔っていた」という表現が多い。韓国政府と社会の腐敗に対する失望も大きかった。中共軍(中国軍)の介入でソウルを捨てて後退しながら惨状を目撃し、「我が民族は今虫けらだ」と絶望した。しかし、「国軍に入隊するために村を通過する数万名の青年は疲れてはいたが、目は新たな生気に満ちていた。民族の希望が見える」と書いた。日記はだいたいここまでだ。金教授は間もなく、故郷の慶尚北道永川で暴漢の銃撃を受け命を落とした。
楊相勲(ヤン・サンフン) 主筆
韓国と日本、その永遠の平行線(1)
2019年01月08日08時17分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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【コラム】韓国と日本、その永遠の平行線 |
「縮み指向」をキーワードに日本人の特性を明快に分析したのが韓国の李御寧(イ・オリョン)先生だ。日本には「道徳指向」をキーワードに韓国人の特性を暴いた学者がいる。京都大学の小倉紀蔵教授だ。ここまでやるかと思うほど「正しい・正しくない」を追求する韓国人の道徳指向的心理構造を理解しないことには、韓国人と韓国社会を本当に把握し説明することができないというのが彼の主張だ。
東京大学ドイツ文学科出身の小倉教授は1980年代末に韓国に留学してソウル大学哲学科で8年間学んだ。彼にとって韓国はこれ以上なく奥深く、不思議な世界だった。彼は韓国的な精神世界の裏面を明らかにしてしようという情熱に捕われ、眠れない夜を数え切れないほど送った。その結実が98年に日本で出版された『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』という本だ。遅ればせながら韓国では約1年前に翻訳・出版された。一撃で韓国を「アウト」させ、韓国に関してはこれ以上の説明が必要のない本を書いてやる、という決起の所産だ。
本の題名そのまま、彼は韓国を「一個の哲学」と規定する。その哲学は道徳哲学で、正確には儒教哲学だ。さらに具体的には朱子性理学だ。朝鮮王朝が滅びてすでに100年以上経った今も、韓国人の精神世界を支配しているのは朱子性理学というただ一つの哲学だと小倉教授は言う。道徳を指向することと道徳的であることはもちろん違う。人々の言葉と行動をひたすら道徳(最近の言葉では正義)というものさしで裁き、徹底して優劣をつける道徳還元主義が彼の言う韓国人の道徳指向性だ。
朝鮮は国家の基本理念として、南宋の朱熹が完成させた性理学を受け入れた。天理と人間道徳の完ぺきな一致を追求した性理学を基に、朝鮮の天才たちは針ひとつ入る隙のない精緻な理論を作り出した。理気論だ。人間、世界、宇宙のすべての領域を「理」と「気」の関係に立脚して、誰がより理路整然と説明できるかをめぐり朝鮮の学者たちは生死決断の戦いを繰り広げた。論争で勝ったグループは道徳的権威とともに権力と富を独占した。敗れたグループは権力から排除されたことはもちろん、さらには命まで失った。今でも韓国社会は道徳的名分をめぐって権力争いと領域争いを行う巨大な劇場というのが小倉教授の見方だ。手に汗握る韓国社会の躍動性はここに由来するという。
韓国と日本、その永遠の平行線(2)
強大国に取り囲まれた地政学的条件で、朝鮮は力より道徳で武装する道を選んだ。丙子胡乱(丙子の乱)の侮辱を受けても、朝鮮は清を女真族「蛮夷」の国だと内心蔑視して中華文明の真の継承者を自任した。旧韓末の世界史的激変期にも朝鮮は「衛正斥邪」の旗の下、国の門を堅く閉めて性理学を手放そうとはしなかった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の残酷な戦乱を起こした日本に対しては蛮夷国・倭よりも道徳的に優位にあるという自閉的道徳優越主義で対抗した。
韓国が道徳指向的国家であることに比べ、日本は「没道徳的(amoral)」国家だと小倉教授は言う。韓国人と違い、日本人は現実を宿命として受け入れる運命論的な傾向が強いということだ。日本のテレビドラマでは恋人たちが「なぜかあなたとはうまくやっていけないと思う」と話しながら別れるが、韓国ドラマでは「あなたはこのような点が道徳的に間違っているので別れるしかない」と話しながら決別するというのが彼の観察だ。日本ドラマが伸び切って退屈なのに比べ、道徳の論理で武装した感情が際限なく衝突する韓国ドラマは退屈している暇がない。
新年早々から韓国と日本が激突している。強制徴用判決の履行と日本哨戒機に対する韓国軍艦のレーダー照射攻防をめぐり、譲歩のない対立が続いている。歴史と領土問題をめぐって両国がぶつかるたびに、それでも日本では少数であっても韓国の肩を持つ声が出てくるが韓国は全くそうではない。韓日間の葛藤事案に関する限り、韓国には思想と良心の自由、表現の自由が事実上存在しないと言っても過言ではない。このような現実を植民支配の傷だけで説明することができるだろうか。道徳より現実を重視する日本に道徳のものさしだけ突きつけているから互いに接点を探せない。永遠の平行線だ。中国の台頭で米国と中国が衝突する状況で、対日外交をこのように放置してもいいものか。
日帝強占から解放されて70年が経ち、1人当たりの国民所得が3万ドルを越えたといっても、我々の精神世界はまだ道徳性の純度をめぐって血をほとばしらせながら戦った朝鮮時代の水準から抜け出せずにいる。道徳のものさしだけで日本を裁いて日本を「敵」「奴」として扱う限り、我々は日本を克服することはできない。
ペ・ミョンボク/コラムニスト・論説委員
【随想】
筆者には申し訳ないが、「彼は韓国を「一個の哲学」と規定する。」、「韓国が道徳指向的国家」には笑ってしまった。笑ってから、申し訳ないと思い、考えてみた。ハングル語のこと、朝鮮併合時のこと、江戸末期からの日本と李氏朝鮮の外交関係のこと。戦後の日本国内での乱暴狼藉。李承晩ラインのこと、経済技術協力こと、韓国経済自立のこと、そして慰安婦や強制連行の捏造。これらを考えてもやっぱり同じだった。そして、井の中の蛙の道徳論、自己中の道徳論、自分が世界一の道徳論、対日に於いて韓国の根柢を為すものはそういったなんだろうなと結論してしまったが、筆者と韓国国民には訳し訳なさ過ぎるだろうか。歴史を顧みれば、日本が併合しなくても、清国か、ロシアが滅ぼしたであろう事は容易に推察できる。祖国を滅ぼしても平気な道徳国家とは何か。
其処にあるのは単なる野蛮人の「世界で一番オラが偉い」式の優越感だけではないのか。日本の韓国併合は植民地支配ではない。経営的には支出オーバーであったり、反日感情を増幅させることになる小学校の全国設立や大学の設置などするものか。李氏朝鮮がハングルの国語化を野蛮国のすることだと反対したのは歴史的事実ではないか。国民の識字率立が非常に低かったのは有名ではないか。その国民に反日の感情を植え付ける国民教育の向上を為す植民地政策など世界に存在しない。結局は野蛮国の日本に支配されたという屈辱感情で狂気に陥っているとしか思えない。江戸時代末期より一貫しているのは「日本如き」という優越感で、これが亡国を招き、現代の歪んだ歴史創作と日韓関係の危機を招いている本当の原因ではないのかと思うのだが。
4月11日は大韓民国臨時政府樹立100周年だった。1919年3月1日に韓民族が一致団結して独立万歳を叫び、4月11日に中国・上海で亡命指導者らが大韓民国臨時政府を宣言した。韓国の歴史上初めて民主共和国を選択した。それからの100年は「奇跡の歴史」だった。臨時政府が樹立されたとき、韓国国民の相当数は餓死を逃れるのに必死だった。窓のない土壁の家で暮らし、住宅街のどぶには汚物やごみがたまって腐っていた。世界で最も貧しく、最も絶望的な植民地だった。解放後は6・25(朝鮮戦争)南侵で国土と国民が台無しになる大惨劇まで起きた。
ところが全国民が一つになり、信じられない底力を発揮した。大韓民国の経済発展の歴史は、今から振り返ってみても、一つ一つが全て奇跡のようだ。1950年代中盤の時点で60ドル(現在のレートで約6700円、以下同じ)しかなかった国民1人当たりの所得は、昨年3万ドル(約335万円)を超え、国の経済規模は世界第11位になった。人口5000万人を超える国の中で所得3万ドルを超える国は、世界に7カ国しかない。大韓民国を除いたほかの国々は全て、かつての帝国だった。韓国は、産業化に成功した後、民主化まで成し遂げた。100年前に、日本の弾圧を避けて外国で臨時政府を立てるしかなかった指導者らは、この奇跡のような祖国の繁栄を想像できなかっただろう。先人らが今日の韓国を見ることができたら、感激の涙を流すのは疑いない。
臨時政府100年の記念日は、この「奇跡の歴史」を全ての韓国国民が祝い、記念する日であるべきだった。しかし訪米中の大統領は、代読される記念の辞の1通すら残さなかった。それは難しいことなのか。到底理解し難い。米国議会すら「100年前の臨時政府樹立は韓国の民主主義の土台」だとして、韓米同盟決議案を発議した。文大統領は「2019年は大韓民国建国100周年」だとして強い愛着を示していた。しかし昨年4月の南北首脳会談以降、「建国100周年」は突然姿を消し、肝心の臨時政府100周年の日には記念の辞すら出さなかった。大統領直属の委員会は、ソウル都心に主な独立運動家の大型肖像画を掲げながら、臨時政府の初代大統領だった李承晩(イ・スンマン)は省いた。こんなことがあり得るか。大韓民国を「生まれてはならなかった国」とけなしていた勢力が権力を握り、ありとあらゆる場所で奇跡の歴史を否定し、消し去ることにあくせくとしている。国民が目覚めていてこそ、韓国の奇跡の100年と韓国という国そのものを守ることができる。
http://chosonsinbo.com/jp/2013/04/0405sg-3/
これは愛し合う男女が、人眼をさけて深夜、会っている場面である。
朝鮮では、長期にわたり儒教の教えを極端に拡張して、「男女七才ニシテ席ヲ同ジクセズ」として、男女の自由な交際を禁止し、結婚に際しても親同士が話を決め、本人たちは結婚の日に初めて会うということも少なくなかった。そういう社会的環境の中で、愛し合う男女は、この絵のように交通禁止となる夜の三更(23時〜3時)に家を抜け出し、約束の場所に急いだのである。
三日月も二人の心を知るかのように、光を落とし西に沈もうとしている。そのお陰か、男の持っ行灯(あんどん)に照らされて足下だけが明るく、周囲はもうろうとして土塀の上部も闇につつまれ、あばら屋だけが人眼をさえぎっている。女性はときめく心を押さえかね、男に近ずきながら、被り物(쓰개치마)を握りしめているが、心はすでに男に傾いていることは、その靴の方向ではつきりする。行灯を持つ男も全身で愛情を現し、共に歩もうとしている。
この画家が、閉鎖的な社会環境の中で、男女の愛に対して同情し、かつ肯定的なまなざしで、このような絵を好んで描いた心底には、当局の伝統的な政策に対する反抗心が積み重なっていたであろう。当局者もこれを感じ取り、「いかがわしい絵」を描いたとして、画院から追放したのである。その晩年についての記録はない。
(金哲央)
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/03/15/2019031580112.html?ent_rank_news
今、韓国のあちこちで「親日派の人物が作った校歌をなくし、新しい校歌を作ろう」という動きが起こっている。あるテレビ番組は、親日派が作曲した校歌を歌う小中高校および大学が韓国に合計214校あることを確認した、と報じた。『全南日報』は今年1月2日からおよそ40日間、この問題を集中的に報じてきた。「親日残滓(ざんし)校歌」を持つ学校は17校あり、このうち8校が今年3月の入学式で校歌を歌わなかったという。既に新校歌を作っている学校もあるという。全国教職員労働組合(全教組)ソウル支部は、ソウル市内113校の校歌が親日派の作品だと発表した。
全羅道地方の名門にして、植民地時代に学生独立運動の発祥地となった光州第一高校を見てみよう。来年で100周年を迎える学校だ。同校の校歌は作曲家・李興烈(イ・フンリョル)の作品だ。童謡「島の赤ちゃん」を作曲した李興烈。ところが民族問題研究所が作った『親日人名辞典』には、李興烈の名前が載っているという。そのため学校側と同窓会では校歌を変えると決め、新校歌は、光州事件を象徴する曲として歌われることの多い「君のための行進曲」を作曲したキム・ジョンリュルに任せることにしたという。
現在の光州一高の同窓会長は金相坤(キム・サンゴン)元教育相だ。彼は、校歌を変えようという側に立っている。この件で先頭に立っている人物は、民族問題研究所光州支部長でもある金淳興(キム・スンフン)教授だ。すると、やはり光州一高同窓会長出身で国会議員を3期務め、今年80歳になる李栄一(イ・ヨンイル)元議員が反旗を翻した。彼はこう主張する。「一部の歴史学者が国民的合意もなく少数意見で作った親日人名辞典などに依拠して、一部では、校歌の作曲家(李興烈)を親日派だと追及し校歌を作曲し直すべきだという奇怪な狂態を見せている」。校歌を変えようというのは「奇怪な狂態」、すなわち狂気の沙汰だというのだ。
最近では音楽家・安益泰(アン・イクテ)の「親日行跡」があらためて問題視され、愛国歌(韓国の国歌)の使用を巡る賛否の論争も熱い。音楽学者・李京粉(イ・ギョンブン)は『失われた時間 1938−1944 世界的な音楽家・安益泰の隠された生を訪ねて』を著した。李海栄(イ・ヘヨン)韓神大教授は『安益泰ケース−国家の象徴についての一研究』を出版した。李京粉は安益泰の親日音楽を語り、李海栄は安益泰の政治的行跡を問題視した。李海栄教授は、安益泰がドイツ滞在中に日本の特殊工作員だった江原綱一(当時の在ベルリン満州国参事官)宅に身を寄せていたことがあるという点、そして愛国歌には法的根拠がないという点を取り上げ、新国歌を作ろうと主張している。
安益泰は1936年、米国へ渡って愛国歌を作曲すると決心した。安益泰が『新韓民報』に寄稿した記事を読むと、愛国歌作曲の動機は極めて「愛国的」だった。その後、安益泰はドイツに渡り、そこで韓国人としては初めてベルリン・フィルハーモニー・オーケストラを指揮し、さらにドイツの巨匠、リヒャルト・シュトラウスの弟子になった。だが、シュトラウスはナチス主義者だった。それでも1940年12月20日に上海大韓民国臨時政府は、愛国歌を日本統治下の韓国の公式国歌として承認した。
音楽コラムニストのノ・スンリムはこう語る。「全体主義が絶頂に達した戦時体制下、日本の同盟国だったドイツで朝鮮人のアイデンティティーを維持することは、自由主義国家の米国におけるより容易ではなかっただろう。(中略)彼の親日的な行動を擁護するわけではない。問題は、そういう過去とは、愛国歌を変えて親日派の音楽を取り除くという形で簡単に清算される問題ではないということだ」。ノ・スンリムの文章を引き続き引用しよう。「韓半島(朝鮮半島)で西洋音楽が本格的に発展・活性化したのが、1920年代に朝鮮総督府の後援で日本留学に出掛けた韓国の音楽家らによるものだったことを想起すると、私たちが享受しているこんにちの西洋音楽そのものが、親日という過去を背負っていると見ることもできる」
フランスも、国歌「ラ・マルセイエーズ」を変えようと議論したことがあった。歌詞があまりに残忍だからだ。「血まみれの旗が掲げられた/(中略)/やつらはなんじらの元に来て/なんじらの子と妻の喉をかき切る」。こんな歌詞だ。しかし、実に220年以上も歌ってきた国歌を変えることはできなかった。歴史であり、暮らしになってしまったからだ。欧州の国歌には、専制君主をたたえる歌詞が多い。それでも歌う。
今、どこかで誰かが、愛国歌をなくし、新国歌を作る準備作業を具体的かつ隠密裏に進めているかもしれない。言うまでもなく確認が必要だ。実際、韓国の進歩系諸政党はあれやこれやの記念式典で、愛国歌ではなく「君のための行進曲」を歌うこともあった。
校歌の変更、愛国歌の消去、これは簡単な問題ではない。一歩間違えると、文化的な遺跡を破壊したアフガニスタンのタリバンや中国の紅衛兵のようになる。下手に歴史を「清算」すると、歴史を破壊することになる。
キム・グァンイル論説委員