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- 2021.04.19 Monday
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【ソウル=黒田勝弘】故金正日総書記も父・金日成(1994年死亡)と同じく、北朝鮮の国民に十分な食べ物を与えられないまま亡くなった。48年の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国から63年。親子2代にわたる長期の統治にもかかわらず、北朝鮮は国家としてついに浮上しなかった。国民も極貧から抜け出ることができなかった。
「代を継いだ」金正日体制は、建国以来の国家としての最大目標だった「米のご飯と肉のスープ」を最後まで国民に提供できなかった。国民を餓死させたのでは他にどんな成果があっても指導者としては失格である。
国民に悲運、悲惨をもたらした「息子・金正日」の最大の失敗は、父・金日成の死後、父を批判、否定できず“変化”を拒否したことにある。
北朝鮮の社会主義はすでに金日成時代に行き詰まっていた。経済疲弊や国民のヤル気喪失、生活苦は内外で確認されていた。そんな中で90年代には最大の支えだったソ連・共産圏が崩壊し、東西冷戦状態が終わったのに、北朝鮮だけは変化に背を向け続けた。
金正日総書記は1942年2月16日、中朝国境の白頭山(中国名・長白山)の秘密野営地で、父親の故金日成主席と同じパルチザンだった母親、金正淑氏の長男として生まれた。
ただ金総書記の出生地については諸説あり、金日成主席が旧ソ連のハバロフスク郊外で、抗日パルチザンとして旧ソ連極東偵察部隊で特殊訓練を受けているときに誕生したという説もあり。
また出生年についても、以前は「41年生まれ」と発表されていた。だが、父の還暦などの節目と合わせるため82年以降、「42年生まれ」に変更している。金日成、金正淑夫妻の間には、金正日総書記の2歳下に二男、シューラ(4歳のとき池で水死)、4歳下に長女、金敬姫氏が生まれている。
「金王朝」と揶揄(やゆ)される一族の系譜は複雑だ。母親の金正淑氏は49年、金正日総書記が7歳のときに死亡。朝鮮民族は母子の絆が強いことで知られ、まだ母親に甘えたい盛りに生母を失ったことは、金総書記に大きな衝撃と悲しみを与えたことは想像に難くない。
父親の金日成主席は金正淑氏の死後、秘書の金聖愛氏と63年に再婚。しかも2人は正式に婚姻関係を結ぶ前にすでに1女2男をもうけており、金正淑氏の死去後、母親の知人の女性に金正日と金敬姫は預けられるなどして父親と一緒に暮らすことはなかった。
そのため金正日総書記は父親を奪った金聖愛氏に激しい憎悪を抱いていたとされ、継母を一度も「お母さん」と呼んだことがなかったとされる。これが「猜疑心(さいぎしん)が強い」(亡命した北朝鮮の元高官)という金総書記の性格を形成していったものとみられる。
継母や異母弟の金平日氏らを徹底的に疎む半面、実妹である金敬姫氏をかわいがった。妹など身内には多大な信頼を寄せ、金敬姫氏を労働党幹部として取り立て、夫で義弟の張成沢氏も重用し党の要職に就けたほか、国防委員会副委員長にも抜擢(ばってき)した。
一方、金正日総書記の女性関係は派手だった。3回の結婚のほか、内縁の妻も複数いたという。初婚の相手は大学時代の恋人の洪一茜氏で、1女をもうけた。続いて元タイピストの金英淑氏と再婚し、子供が1人。元女優で人妻だった故成恵琳氏(02年死亡)との間に長男、正男(1971年5月10日生とされる)が生まれたが、内縁関係のままだった。
故高英姫氏(04年死亡)との間には二男、正哲(1980年9月25日生)、三男、正恩(1982年1月8日生)のほか1女(1987年9月26日生)がいる。高英姫氏は金正日総書記に最も愛された女性で、金総書記は、高英姫氏や3人の子供たちと過ごす時間が多かったという。
高英姫氏が死去した後は、金正日総書記の個人秘書、金玉(キムオク)が事実上の妻だったとされる。金総書記の訪中に同行する姿も目撃されている。そのほかにも、かつて「喜び組」のメンバーであった女性との間に子供がいるとの情報もある。(水沼啓子)
【ソウル=加藤達也】石川県・能登半島沖で先月保護され、今月4日に韓国へ移送された脱北者のひとりが、北朝鮮の国民の反政府活動を「金正日政権は極度に警戒している」と証言していることが15日、分かった。外交筋が明らかにした。また、政権の三代世襲を国民の多くは嫌悪しているが、三男、正恩氏の指導者就任は避けられないと受け止めているという。
日韓当局の事情聴取でこの脱北者は、北朝鮮の情報統制について「最近2、3年は特に厳しくなった」と供述。海外情報の遮断は徹底しており、「韓国に行ってみたいと口にした近隣住民が、翌日には(連れ去られて)いなくなっていたこともある」と明らかにしたという。
統制・取り締まり強化の背景には「反政府運動に対する極度の警戒感」があり、住民統制の最小単位である「人民班」を通じ、人々がむやみに集まることを厳禁。脱北者は「デモを警戒しているのだろう」と語ったという。
しかし、こうした取り締まり強化にもかかわらず、最近は公共の場所で政府を公然と批判するビラが張られることもあるそうだ。脱北者は「住民の政権に対する感情は極めて悪いため、今後も(金正日政権を中傷する)事件は増える」とみている。
脱北者はまた、「正恩氏に関する集会も頻繁に開かれるが、強制的に参加を求められるのでだれも喜ばず、その間は商売もできないため嫌々参加している」と証言。「金総書記は(白い飯と肉のスープを与えるという)約束を守らず、逆に生活が悪化した。正恩氏でよくなることはない」と指摘している。
世襲については、別の脱北者も「(金父子らは)世襲を当然だと思っているのだろうが、国民はそうは思っていない」と話しており、世襲を強引に進める政権側の動きが、かえって民心の離反を招いているという。
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http://sankei.jp.msn.com/world/news/111220/kor11122007250010-n1.htm
世界挑発、重ねた蛮行 テロや弾圧、「瀬戸際外交」
1974年に金日成主席の後継者に決定し、80年の朝鮮労働党大会で初めて公式の場に登場した金正日総書記だったが、以後、金総書記が指示した可能性が強い北朝鮮によるテロや拉致事件が相次いだ。
83年10月にはビルマ・ラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)のアウンサン廟(びょう)で爆弾テロを起こし、現地を訪問していた韓国の外相ら4閣僚と随行記者ら17人を殺害した。同国の全斗煥大統領(当時)の暗殺を狙ったものとみられ、その後、北朝鮮の工作員複数が逮捕された。
日本を驚愕(きょうがく)させた事件に、87年11月に起きた大韓航空機爆破事件がある。金賢姫ら2人の工作員に日本の偽造旅券(パスポート)を持たせて、乗客乗員115人を乗せインド洋上空を飛行中の大韓機を爆破した。
また、96年9月には偵察目的で韓国東海岸に潜水艦で工作員を送ろうとしたが、潜水艦が海岸で座礁し工作員は韓国の山中を逃走。工作員や韓国軍兵士ら多数が死亡した。
70年代から80年代にかけては日本人や韓国人、その他、世界各地の人々を拉致した。金総書記は2002年9月に訪朝した小泉純一郎首相(当時)に対し、日本人拉致の責任について「特殊機関の一部の者が妄動主義、英雄主義に走って行った」と述べ、自らの指示ではなかったと弁解している。
武力挑発も頻発した。1998年に中距離弾道ミサイル「テポドン1号」を、2006年に「テポドン2号」を日本海に向け発射し、日本列島を横断させた。また、同年10月には周辺各国が懸念する中、初の地下核実験を強行、09年5月にも核実験をした。これら軍事的挑発を、金総書記は米国や韓国を交渉の場に引き出すために“瀬戸際外交”の一環として利用した。
昨年3月には黄海で韓国海軍の哨戒艦を撃沈。8カ月後の11月には韓国の延坪島を砲撃した。砲撃は、後継者に決まった三男、金正恩氏の業績作りと目されている。
北朝鮮内部での強圧統治も、脱北者や人権団体を通して知られている。辺境地の強制収容所に政治犯や思想犯を送り、多くの人々がここで命をなくしたといわれる。収容された人々は現在も極限状態での生活を強いられているという。
慢性的な経済苦境から抜け出せない北朝鮮だが、専門家の間では「指導部、金総書記の失政がその原因」とする見方が圧倒的だ。金総書記は09年11月にデノミ(通貨呼称単位の変更)を断行しており、その後、北朝鮮の民間経済はますます混乱したことが伝えられている。
日本や韓国をはじめとした各国を巻き込むテロや拉致、武力挑発の先頭に立ってきた金総書記。積み重ねてきた派手な蛮行に対し、謝罪はほとんどない。
唯一、金総書記が犯した罪に対して謝罪したのは、確認されている限り、“仇敵(きゅうてき)”であるはずの、日本から拉致被害者奪還のためにやってきた小泉純一郎元首相ただ一人である。しかしその後、拉致問題解決に向けた取り組みは遅々として進んでいない。(名村隆寛)
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http://sankei.jp.msn.com/world/news/111220/kor11122001180004-n1.htm
「功」見当たらず 国民飢えさせた「出来の悪い2代目独裁者」
2世独裁者・金正日総書記も父・金日成(1994年死亡)と同じく国民に十分な食を与えられないまま死去した。親子合わせ63年間の“鉄拳統治”の下、北朝鮮は核とミサイルの開発には成功したが国民は貧困から抜け出せず、まともな国家としてついに浮上できなかった。
国家指導者の死に際して人物評には「功罪相半ばする」との形容句がよく付くが、故金正日総書記には「功」が見当たらない。
48年の建国以来、最大の国家目標であり国民への約束だった「米のごはんと肉のスープ」を最後まで国民に提供できなかった。国民を飢えさせたのでは、他にどんな成果があったとしても指導者としては失格である。
国民の多くがひもじく疲弊するなか、金正日父子だけが肥満体というその姿が、金正日体制の悲劇を象徴している。
金正日総書記は国民に対し自らを父に似せ「将軍さま」と呼ばせた。「偉大な領導者(指導者)」「21世紀の太陽」などと崇拝させ国民を服従させた。残ったのは父以上の超独裁体制であり、金総書記は「出来の悪い2代目」に終わった。
「息子・金正日」の最大の失敗は父の死後、父の失敗を批判、否定できないまま“変化”を拒否したことにある。
北朝鮮の閉鎖的な社会主義独裁体制は金日成時代にすでに行き詰まっていた。国民に自由を許さない極端な計画経済で経済は破綻し、国民はヤル気をなくしていた。金正日体制スタート後の大量飢餓はそのツケだった。
90年代に入り、それまで北朝鮮を支えてくれたソ連・共産圏が“変化”を目指して崩壊し、東西冷戦体制が無くなったにもかかわらず、金総書記はその「歴史の流れ」に一人背を向けた。
彼にとって94年の父の死は、父の時代を“失敗”として総括し、それまでの閉鎖的な社会主義独裁体制を手直しするチャンスだった。国民に希望を与え新しい「金正日時代」に踏み切ることも可能だった。すでに改革・開放で経済的に成功しつつあった中国のお手本も、すぐそばにあった。
しかし彼は「変化より守り」を選択した。父の死を、“過去”を否定した新たな発展のきっかけになるとは判断せず、逆に「偉大な父」の不在による体制の危機と思った。危機感からは「守り」の姿勢しか出てこない。
企業でもカリスマ(神格性)のない2代目社長の場合、不安感から新しいことや変化には踏み切れず、ひたすら守りに入って企業を衰退させ、つぶすことがよくある。北朝鮮の場合、先代は負債だけを残し亡くなったため、2代目はなおさら苦しく不安が強かった。
その一つの突破口は中国式の変化だったが、中国式の改革・開放では外から「自由の風」が吹き込み、自らの独裁体制が揺らぐと恐れた。逆に父の誕生日を「太陽節」とたたえ、その誕生年を「主体元年」として年号を制定するなど、父親崇拝で父と一体化することで自らと体制を守ろうとした。
カリスマ不足で父親コンプレックスの金総書記は「守り」を選択することで失敗を繰り返したが、“父・金正日”は3代目にどんな“帝王学”を授けたのか気になるところだ。(ソウル 黒田勝弘)
_____________________________________________________北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記が死去した。朝鮮中央通信をはじめとする北朝鮮の党・政・軍関連メディアは19日12時、「全党員と人民軍将兵と人民に告げる」と題した発表文を通じて、金総書記が現地指導中に急性心筋梗塞と合併症により、17日午前8時30分に専用列車内で死去したと発表した。享年69歳(公式年齢)。
金正日は北朝鮮の唯一かつ絶対的な独裁者、金日成の息子で、1994年に父が死去すると、しばらく金日成の遺旨に従って国家を統治する「遺訓統治」を時代を経て、98年に国防委員長に就任、北朝鮮を統治してきた。しかし、実際には74年2月に朝鮮労働党中央委員会第5期第8回総会で後継者として推戴された後、「党中央」という名の下に事実上北朝鮮を統治してきたため、金正日の統治期間は37年に及ぶわけだ。45年以後、北朝鮮の歴史は金日成単独統治時代(1945-1974)、金日成・金正日父子共同統治時代(1974-1994)、金正日単独統治時代(1994-2009)、金正日・金正恩(キム・ジョンウン)共同統治時代に整理することができる。封建的な北朝鮮社会の現実は、北朝鮮憲法(2009年改正)の前文にある、「偉大な領袖金日成同志の思想と領導を具現した主体の国家であり、偉大な首領金日成同志は朝鮮民主主義人民共和国の創建者であり、社会主義朝鮮の始祖である」との一節に集約されている。
2400万の人民が暮らす国の絶対権力が、父・子・孫の3代、66年間にわたって相続されるという歴史は、封建時代が終了した現在においては、北朝鮮の金王朝を残すのみだ。北朝鮮は金正日記死去の発表文を通じて、「北朝鮮は金正恩同志の領導に従って今日の難局に打ち克ち、主体革命の偉大な勝利」などとしている。今月28日の国葬を執り行う国家葬儀委員会の名簿には、金正恩の名前がの筆頭に記されているが、父・子・孫の3代統治は、金総書記の死で事実上終焉したと見るべきだ。
金日成は北朝鮮軍を創設し、朝鮮労働党を創党し、ソ連の支援を受けて党と軍を掌握した。しかし、金正日は父の権力を継承したものの、先軍政治という名の下、国家予算と権力を軍に集中させるという、軍へ迎合主義路線を敷き、軍とともに共同統治をするほかなかった。父の後継支援期間も長くなく、軍と党に支持勢力を獲得するひまもなかった金正恩時代の権力が、遠からず共産国における権力の根源である銃口、すなわち、軍部に集中することは自明の結果だ。
北朝鮮の権力の将来は、最も権力を持つ軍部が「金一族の革命国家」という偽りの歴史に洗脳された北朝鮮の人民を統治する手段と名分に、金日成・金正日へと受け継がれた血族をいつまで、どの程度利用するかにかかっている。北朝鮮軍部の選択対象が金正日の子息である金正恩、金正男、金正哲、そして金正日の異母兄弟である金平一のうち、誰なのかという問題は、軍の都合に左右されるだけだ。われわれ韓国人が憂慮することは、北の権力が金一族を離れ、新たに権力集団が形成される過程で、粛清と流血が今よりむごたらしく行われ、罪無き人民の犠牲がどれだけ拡大するかという点に尽きる。
金正日による非公式統治期間の37年、公式統治期間の17年は、流血とテロと暴力と集団餓死が入り混じった暴政の時代だ。金正日は1974年に北の共同統治者として浮上した後、76年に板門店でポプラ事件、83年にビルマでラングーン事件、87年に大韓航空機爆破事件、2002年に第2延坪海戦、2010年に哨戒艦「天安」爆沈事件と延坪島砲撃事件を立案し、実行した。
しかし、2400万の北の同胞たちは、大韓民国の犠牲よりも数十倍、数百倍の凄惨な犠牲を強いられた。金正日は自身の権力基盤強化のため、食料の購入に充てなければならない数十億ドルのカネを核兵器開発に投じ、94年から98年までに数百万人の餓死者を出すという、民族史上最大の大規模な餓死事件を「苦難の行軍」と美化し、悲劇を助長、放置した。金日成が(北の韓国侵攻により勃発した)韓国戦争で、数百万人の同族を銃と大砲の餌食にしたとすれば、金正日は対南テロと北の住民を餓死させることで、大量虐殺の首謀者という「凶家」の代を継承したわけだ。
大韓民国と南北7500万人の同胞は、いま歴史的・民族的な「真実の瞬間」に立ち会っている。民族の運命と進運が懸かる事態を前に、今日を背負い、明日を切り開いていかなければならないわれわれは、金父子の罪業の重さと大きさを量る余裕さえない。われわれは金王朝が没落したこの瞬間、南北関係を超えて韓半島全体を管理しなければならない当事者の立場に立つことになった。何人もこの荷を振り払うことも、降ろすこともできない。短期的には韓半島の平和を維持し、長期的には民族統一の道を開いていくという課題は、金王朝の没落と同時に課せられるためだ。
韓国にとって最も至急の課題は、金正日死去後の権力空白期間が大量粛清と大量虐殺をもたらし、北朝鮮の同胞の犠牲と恐怖が増大する事態を防止することだ。第2に、北朝鮮の核兵器とミサイル流出といった、不祥事の発生を防ぐ有効な手段を講じることだ。この二つの課題を解決するためには、国際社会と共同で関心を表明し、特に米国と中国をはじめとする周辺国家の協調が不可欠だ。韓米同盟の真価を発揮しなければならない時であり、中国とのコミュニケーションに最大限の外交資源を投じなければならない状況だ。核とミサイルの流出は米中間の緊張を招くという観点からも、韓米・韓中の協力はもちろん米中の緊急対話も喫緊だ。
第3の課題は、北朝鮮同胞の人間らしい生活を取り戻すことができるよう、韓国がとりうるすべての手段を検討することだ。これは韓国の対北政策の根本的な基礎となるものだ。配給社会は権力の空白期に配給体制の崩壊による悲劇をもたらしうる。北朝鮮の臨時指導部に緊急の食糧支援の道を示すこともその一つであろう。またこの過程でホットラインが閉ざされた南北をつなぐ方策も、その検討課題となりうるだろう。われわれは全体主義社会の崩壊、権力の移行期に、人民の大規模な国外脱出が頻繁に発生してきたという歴史的な前例を振り返り、これに備える必要がある。
北の臨時指導部に民族的な良心に立脚して伝えたいことは、核を放棄し、国際社会の枠組みの中に復帰することが、唯一北朝鮮が今日の困窮を打開するという事実を直視してほしいということだ。北の新指導部がそのような決断をするならば、韓国は北朝鮮が権力移行という混乱期を迎える上で、協調する用意があることを伝えるのも良いだろう。一点だけ付け加えると、国境警備態勢は万が一の事態に備えて徹底しなければならないものの、不用意に北を刺激することがないように、賢明に対処しなければならない。94年の金日成死去時に韓国政府が全軍に非常警戒態勢をとったことことについて、後に北が問題視したこともあった。
今この瞬間にわれわれに求められていることは、大韓民国の国家的・国民的力量を注ぐ姿勢だ。ここに大統領と一般国民の差も、与野党の別もありえない。いまこの瞬間に小利を求める個人と集団は永遠に死するであろう。大義のために自らを投げ打つ人と集団には、民族の将来を切り開く役割が与えられるという点を、忘れてはならない。大韓民国の国民は、いまこの瞬間から一日、一週間、一か月、1年単位で生きることはできない。分刻み、秒刻みで情勢を注視し、対応策を準備し、実践していかねばならない。
金正日(キムジョンイル)総書記の頭を常に支配していたのは、父金日成(キムイルソン)主席が築いた「金王朝」をいかに維持するかだけだった。
それまで、秘密のベールに包まれ、肉声を聞くことさえ少なかった金総書記の動静に、世界が深く関心を持つきっかけとなったのは、2000年6月の南北首脳会談だった。韓国の金大中(キムデジュン)大統領(当時)を平壌空港で出迎え、固く抱き合った瞬間、当時、特派員として駐在していたソウルの市民がテレビ画面を見て大きな拍手を送るのを目撃した。朝鮮半島の人々を苦しめ、東アジアを不安に陥れてきた「南北分断」解消のため、北朝鮮がついに韓国と手を結ぶ決意をしたと多くの人々が感じたからだった。
しかし、金総書記は、南北交流で手にした資金を核・ミサイル開発につぎ込み、周辺諸国を恫喝(どうかつ)した。さらに、日本の求める拉致問題の解決には応じようともしなかった。
金日成・正日父子を近くから見続け、後に韓国に亡命した、黄長〓(ファンジャンヨプ)・元朝鮮労働党書記は、金総書記が1950年代末から「後継者」として父から帝王学を学んでいたと証言する。
当時、北朝鮮は東西冷戦構造の中、ソ連・東欧圏の支援を受け、順調な国家発展を続けていた。金主席は、東南アジアやアフリカ諸国を巻き込んで大国に対抗する「第三世界外交」を展開して存在感を示し、国民に「夢」を与えることにも、ある程度成功した。
しかし、金総書記が父から本格的に国家指導を委ねられるようになった80年代以降、北朝鮮を取り巻く情勢は急変する。
ソ連・東欧圏は力を失い、やがて崩壊する。「友好国価格」でエネルギーを獲得し、経済・技術支援を受けてきた北朝鮮は、自力での国家運営・維持を迫られた。
金主席は、いわば「追い風」の中で国家建設を続けた。しかし金総書記は、父も経験したことのない「逆風」の中での国家運営を強いられた。身近には、手本も教師もなかった。結局、父の残した「金王朝」の維持には、「剛」と「柔」の二つの顔を国内外で使い分け、その場しのぎの国家運営を続けるしか選択肢は残されていなかった。
金総書記は、08年に脳疾患で倒れ、三男正恩氏の後継体制作りを急いだ。正恩氏の周辺に次代を担う側近を配置し、軍部内でも正恩氏を支持する体制作りを終えたと言われる。しかし、12年に宣言するはずだった「強盛大国」の実現は不可能な情勢だ。金主席は、建国当時、日本の植民統治と朝鮮戦争で疲弊しきった国民に「白い飯と肉のスープ」を与えることを約束したが、結局、実現できなかった。
金総書記は、その父から引き継いだ国家を維持するため、「白い飯」どころか、150万〜300万人ともいわれる餓死者を顧みず、核・ミサイル開発に走った。いかに時代の変化という不利な条件があったとしても、金総書記の統治は、この一点をとっただけで、後世の強い批判をまぬがれることはできない。
毎日新聞 2011年12月20日 東京朝刊
【延吉(中国吉林省)=矢板明夫】北朝鮮の金正日総書記の死去が発表された直後の19日午後から、北朝鮮の当局者は同国内に滞在する中国人貿易関係者らに対し、中国へ帰国するよう要請していたことがわかった。吉林省の中朝貿易関係者が22日までに明らかにした。また、この時期から中国から北朝鮮への携帯電話はほとんど通じなくなった。北朝鮮当局が情報統制を強めた可能性が高い。
中朝貿易関係者によれば、北朝鮮の金総書記の死去が発表後、北朝鮮当局者が同国の南陽市などに滞在していた複数の中国人業者のところに来た。当局者は中国人業者にただちに中国へ戻るように求めた。中国人たちは仕事が残っていたが、やむを得ず帰国したという。
また、ほぼ同時に中国から北朝鮮国内へ携帯電話はほとんど通じなくなった。固定電話で一度つながってもすぐに途端に切れたり、話し中に大きな雑音が聞こえたりで不安定な状態が続いているという。
中国では訪中でモノやカネを要求する金総書記のイメージが悪く、死去後は中国のインターネットで「国をめちゃくちゃにした人」「裸な王様」といった金氏批判や揶揄の書き込みが多く寄せられいる。往来制限や情報遮断は北の当局が金総書記への否定的な評価の流入を警戒し、中国人と自国民の接触も遮断したとの見方が強い。