「産経」05/11/27正論
外務省は日本の基本線忘れるな
杏林大学客員教授・田久保忠衛
伊藤博文、大久保利通の下で知的助言者としての役を演じた
井上毅は、日清戦争直後に伊藤首相に献策書を出し、その中で
「もし台湾がどこの国に移るかによって、その利害は天地ほど
の差が出てくる。台湾なるかな、台湾なるかな」と述べた。以
来、多少とも地政学的思考をする政治家であれば、台湾が日本
の安全保障にとっていかなる意味を宿しているかを知らないは
ずはない。
にもかかわらず、台湾は中国に属すると言わんばかりの公の
文面が二つ目についた。帝国書院の「新編中学校社会科地図最
新版」と東京書籍発行の「新しい社会科地図」で、二冊とも台
湾の東側(太平洋側)に国境線を引き、台湾を中華人民共和国
の領土として扱った。二冊の地図帳で使われている資料はすべ
て中国の資料だ。
両社は、国名を含めた国土・領域の記載は外務省が編集協力
している「世界の国一覧表」(世界の動き社)と日本政府の見
解に基づいていると説明している。ところが「世界の国一覧表
」は台湾を独立国として扱ってはいないが、中華人民共和国と
は別の「その他の主な地域」に分類している。
この点に関し、民主党の笠浩史衆議院議員が政府に質問書を
出した。ところが、去る十五日になされた回答では、「中華人
民共和国は台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である
との立場を表明しており、日本国政府はその立場を十分に理解
し尊重することを明らかにしている」(日中共同声明)を挙げ
、二冊とも検定基準に照らし、教科書用図書検定調査審議会の
専門的な審議により「適切であると判断された」と、木で鼻を
くくったような説明をしている。
もう一つは外務省のホームページに表されている地図である
。ここには中国大陸と台湾が同じ色で塗られており、どうみて
も一つの中国になっている。完全に調べたわけではないが、米
国人が一般に使用する地図や身の回りにある日本の地図で目に
ついたものの中に、台湾の東側に国境線を設けているものは見
当たらない。
ここで改めて明確にしておきたいのは、台湾の所属に関する
日本の立場である。日本はサンフランシスコ平和条約第二条B
項で「台湾および澎湖島に対するすべての権利、権原および請
求権を放棄する」と述べただけで所属については何も言ってい
ない。
一九七二年の日中共同声明第三項は、中国政府は「台湾が中
華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明し
た」と述べている。これに対する日本の態度は「この中華人民
共和国の立場を十分に理解し、尊重する」である。相手の立場
に理解を示し、尊重はするが、日本自体の立場は明らかにして
いない。はっきり言えば当事者である台湾人の立場が全ての決
め手になろう。
特筆したいのは、日中共同声明に署名して帰国した大平正芳
外相は、直後の自民党両院議員総会で、「台湾の領土の帰属の
問題で、中国側は中国の領土の不可分の一部と主張し、日本側
はそれに対して『理解し、尊重する』とし、承認する立場をと
らなかった。つまり、従来の自民党政府の態度をそのまま書き
込んだわけで、日中両国が永久に一致できない立場をここに表
した」と言明している事実である。
台湾の安全保障の支柱というべき米国の「台湾関係法」は、
適用範囲を台湾ならびに澎湖諸島に限定している。金門、馬祖
両島は台湾が実効支配しているものの、両島が中国の福建省に
属する領土であることは認めている。「台湾関係法」にいう「
台湾当局」は当時の国民党政権およびそれを継承する「統治当
局」を指す。
「台湾関係法」が依拠している七二年の米中「上海コミュニ
ケ」は、「台湾海峡の両岸の中国人は中国は一つ、台湾は中国
の一部と主張していることを認識(アクノレッジ)する。中国
人による台湾問題の平和的な解決について、重ねて強調する」
と記している。「認識する」は「理解し、尊重する」よりも、
中国側の立場から距離を置いていると私は解釈してきた。当事
国のニクソン政権は一貫して沖縄基地と台湾海峡への目配りを
強めていた。
台湾の地位は、国際戦略上この地域に激震をもたらす重大な
意味がある。教科書の審議会に地図上の国境線の引き方を委ね
たり、外務省のホームページで担当官が同じ色にしてしまうに
は、あまりにも重い問題だ。