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- 2021.04.19 Monday
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タイの空港で摘発された北朝鮮発の輸送機。大量の武器が積載されていた。(AFP) |
【大紀元日本12月22日】北朝鮮ピョンヤン発の輸送機が、武器を大量に積載しているとして、タイの空港で給油する際に摘発された。飛行ルートの3分の2は中国の領空であることから、北京当局が北朝鮮の違法な武器輸出に協力しているとの疑惑が強まった。 ワシントン・タイムズ紙17日の報道によると、摘発されたのはロシア製のIlyushin-76輸送機で、35トンの武器を積載していたとして、12月中旬にタイの軍事用空港で摘発された。 タイの政府関係者によると、発見された武器のうち、一部はミサイル「テポドン-2」の組み立て部品とみられる。現時点において輸送先はまだ判明していないが、専門家はイランである可能性が高いと指摘する。 北朝鮮の武器開発の調査を担当する米国議会のアジア問題専門家ラリー・ニックス氏は、「同輸送機の飛行ルートの3分の2は中国の領空である。本件における中国当局の役割に強い疑問を感じる」と述べた。 匿名でワシントン・タイムズ紙の取材に応じた米政府官員の話によると、オバマ政権は7月ごろ、北朝鮮が中国の領空を利用して武器販売を行っている件について、北京当局に強い懸念を示した。しかし、中国から実質的な回答は得られなかった。 駐米中国大使館スポークスマン王宝東氏は16日、「中国は国連の決議を忠実に実施している」、「北朝鮮の輸送機が国連の決議に反したかどうか、国連安全保障理事会が判断すべきである」と声明した。 CSIS(戦略・国際研究センター)の上級顧問ビクトル・チャ氏は、「北朝鮮問題において中国は、北朝鮮が核問題の会談に戻る程度の圧力を掛けているが、北朝鮮を潰すまではしたくない」と話す。 タイ政府関係者によると、摘発された輸送機についていくつかの疑問が残されている。まず、なぜ輸送機は中国で給油しなかったのか。次に、北京当局は、米国が追跡していることに気付いていたのか。 また、なぜ、武器を大量積載する輸送機がタイの軍事用空港を選んで給油したのか、と軍事専門家は疑問を呈する。米国とタイは緊密な軍事協力関係にあり、同軍事空港は米国情報収集の拠点である。35トンもの武器を積載しながらここに着陸することは非常に冒険的な行為であるからだ。 乗組員はカザフスタン人4人とベラルーシのパスポートを所持する男性1人。警察の質問に対して回答を拒否しているが、記者会見では目的地はアラブ連合共和国と説明した。 かつて、海上経由での北朝鮮からイランへの武器密輸では、アラブ連合共和国は中継点であったため、専門家は今回の武器密輸の目的地はイランである可能性が高いと指摘する。 一方、ロイター通信は、テポドン2号は北朝鮮とイランが共同開発したミサイルと報じた。 いずれにせよ、最も肝心の問題は、この輸送機の目的地はどこで、武器の買主はだれかということだ。 (翻訳編集・叶子)
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「海溝を這い上がった/亀裂が/鄙(ひな)びた/新潟の/市に/ぼくを止どめる。/忌わしい緯度は/金剛山の崖っぷちで切れているので/このことは/誰も知らない。/ぼくを抜け出た/すべてが去った。/茫洋(ぼうよう)とひろがる海を/一人の男が/歩いている。」
1日夜、新潟市中央区の市万代市民会館で開かれた、新潟大学人文学部主催の詩の朗読会。男性の、とつとつと一語一語をかみしめるように朗詠する声が、静かに響き渡った。
詩は書籍にして200ページにもわたる長編で、題して「新潟」。50年前に新潟港で始まった北朝鮮への帰国事業に触発され、朝鮮半島・元山(ウォンサン)出身で奈良県在住の詩人、金時鐘(キム・シ・ジョン)さん(80)が創作し、この日、自ら朗読した。
新潟は、朝鮮半島を南北2国に隔てる北緯38度線が通る地でもある。そんな象徴的な場所だからこそ、激しく心を揺さぶる祖国分断の葛藤(かっとう)。それを金さんは、文字に刻み込んだ。
帰国事業をめぐっては、開始当初、「北朝鮮は地上の楽園」などと盛んに宣伝された。だが、自由な往来さえ認められない同国の現実がその後次第に明らかになり、多くの関係者に、痛みと悲しみをもたらした。
金さんと交流があり、今回の朗読会の運営に携わった同学部の藤石貴代准教授(朝鮮文学)は、「北朝鮮に渡った人、残った人、それぞれの痛みを、送り出した側である新潟市民として受け止め、その痛みに寄り添いたい」と企画意図を説明する。
戦前の朝鮮半島に生まれ、日本支配下の済州(チェジュ)島で皇民化教育を受けた金さんは、17歳で日本敗戦を迎え、朝鮮の文字を書くこともできないまま「祖国」に直面。「自分は何者なのか」と模索する中、米軍政下の南朝鮮単独選挙に反発した済州島民が警察や軍と衝突した「四・三事件」(1948年)に連座し、日本に逃れた。
そんな体験を核に、その後、祖国の分断と在日の生活や葛藤(かっとう)を描いた日本語詩を数多く作り、発表し続けてきた。
金さんのいとこは、1959年12月28日に新潟港を出港した第3船の団長として北朝鮮へ帰った。「皆が皆、一種のトランス(忘我)状態だった。北はあこがれの国で、その当時の正義だった」
いとこは帰国後、行方不明となっていたが、15年ほどたってから金さんは、いとこは炭坑で働かされて亡くなったと、人づてに聞いた。日本の植民地支配時代に早稲田大を卒業したことが「ブルジョア的だ」とされ、炭坑の仕事を割り当てられたのだという。
「適材適所で働けて、生活には不安がないと言われていた。それが、持てる知識も生かせないまま、炭坑労働で生涯を終えるとは……。これが北朝鮮の実態なのか。この国はもたない――そう思いました」
◇
帰国事業の第1船が新潟港を出てから14日で50年を迎えるのを前に、その理想と現実に翻弄(ほんろう)された人々の、心の叫びを取材した。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/feature/niigata1260371676437_02/news/20091211-OYT8T00110.htm
ふ頭は異様な高揚感に包まれていた。1959年12月14日午後。岸壁に歓声がこだまし、紙テープが飛び交う中、北朝鮮への帰国第1船が、新潟港を出航した。
「好奇心から見に行った。マンセー、マンセー(万歳、万歳)と声がした。船には朝鮮の民族服の人も乗っていて、旗を振っていた」。新潟市中央区の主婦(75)は、当時生まれたばかりの長女を背負って帰国船を見に行き、その歓喜に満ちた光景に目を見張ったという。
同区の萬代橋東詰から、新潟港へ向かう国道沿いに、「ボトナム通り」と呼ばれる柳並木がある。ボトナムとは、朝鮮語で柳の意。帰国事業を記念し、県内の在日朝鮮人たちが59年、日朝友好親善のシンボルにと植樹した。名付けたのは、当時の北村一男知事だ。
国交のない日朝間の人道事業として、両国赤十字の協定で始まった帰国事業。当時、北朝鮮が工業化し、国民総生産で韓国を上回る中、「社会主義」の未来に夢を託した関係者らは、大いなる期待と興奮の中で奔走した。
だが、なぜ新潟港が、その拠点となったのか。
ボトナム通りに建つ看板には、こんな説明文が刻まれている。
「帰国者を送り出す港については、当時反対勢力の妨害が予想される状況下で、引き受ける都市がなかったが、当時の新潟市長は戦前から交流があったこと、また、将来の対岸交流の進展を予測して、新潟港から帰国者を出港させることを決断した」
戦前、新潟は、旧満州(現中国東北部)と定期航路で結ばれていた。日朝・日韓関係史が専門の高崎宗司・津田塾大教授(65)は「大豆や石炭を運ぶ、朝鮮半島ルートの貿易船が行き来していた関係で、新潟港は、大型船の入港に定評があった」と説明する。
日本海をはさんだ「対岸交流」への、地元の期待は大きかった。北朝鮮と結びつくことが、新潟が発展する道だ――という空気の中、県出身の赤十字幹部や厚生官僚が奔走し、新潟に白羽の矢が立ったとも言われる。
市民も帰国事業に協力した。1960年1月5日付の「新潟市政だより」の記事には「帰還第一船無事出港」と題して「今後とも帰還者の方々が無事故国へ帰ることが出来ますよう積極的に協力いたしましょう」とある。
「当時の市長の提唱で市民募金もした。毎年12月に各家庭に封筒を配り、町内会長が集めて、市の窓口に届けていた」。新潟市出身で、元県労働組合協議会事務局長の風間作一郎さん(77)(埼玉県騎西町)は、そう振り返る。
風間さんは運送会社に入社後、労働運動に身を投じ、帰国事業にのめり込んだ。全国の帰国者が列車で新潟駅に到着する度、帰国反対派の妨害活動を阻止するため、周辺の警備を担当。労組員らに呼びかけて200〜300人を集め、改札口からバスの乗車場所まで人垣を作り、帰国者たちを守ったという。「社会主義でなければ、労働者は幸せになれない。そんな希望に燃えていた」
風間さんはその後、帰国事業20周年の行事で、当時の県帰国協力会関係者らと共に北朝鮮を訪問。郊外の、あまりに貧しい農家の様子を目の当たりにし、がく然とする。
「朝鮮戦争終結から数年しかたっていないところに、それ帰れ、やれ帰れと送り出したことが、本当に正しかったのかと反省した。帰国希望者には、生活を支援しながら、長い時間をかけて帰してあげる温かさが必要だった。なぜそれに気付かなかったのか」
「行かれることでしたら飛んで行きたいです」「ここに来て、一日と楽しく生きた日はないです」「今はもう、一日も早く死ぬ日ばかり待っております」
1989年7月、新潟市東区で呉服店を営む小島晴則さん(78)のもとに手紙が届いた。帰国事業で北朝鮮に渡った、60歳代の日本人妻からだった。
「口に出してはいけない点もありますので、書きませんが」としたうえで、「国の建設のために汗を流して歯をかみしめて働いています」など、厳しい労働の日々や、米を始めあらゆる物資が配給制で、極貧を強いられている生活ぶりが、つづられていた。
小島さんは、元県在日朝鮮人帰国協力会事務局長。18歳で共産党に入党し、書店勤務などを経て、同会事務局の専従職員となった。
「多い時には毎週帰国船が出た。見送りを呼びかけたり、歓迎レセプションの準備をしたり、寝ずに動き回るほど忙しかった。帰国者が日本にいるより幸せになれると思ったことが、原動力になった」
しかし、帰国事業が始まった翌々年の61年頃から、帰国者の親族に「物を送れ」という手紙が届いている、という話を耳にするようになった。「デマだと思っていた」が、64年に日朝協会の友好使節団の一員として訪朝し、自由がない北朝鮮の実情を肌で感じたという。
自らの活動に疑問を覚え、68年に帰国協力会を離れた。その後、日本人妻の里帰り実現に向けた活動を始め、96年、日本人妻などから届いた手紙を、「望郷の想い三十七年」という冊子にまとめた。
「(帰国事業に奔走した)当時は、イデオロギーに染まっていた。酩酊(めいてい)しているような状態。その酔いが、なかなか覚めずにいた」
北朝鮮の実情が見え始めて、小島さんのように帰国事業に率先してかかわった人たちが、次第に反対に回るようになっていった。それでも、一部関係者の間には、「新潟が窓口になって、北朝鮮との交流をつないでいかなければ」との思いが、根強く残っていたという。
それを決定的に打ち砕いたのが、拉致問題だった。
新潟市の篠田昭市長は「それまで『新潟と北朝鮮は、友好交流の一番身近なパートナー』ともとらえられていた。それが、当時の小泉首相訪朝で北朝鮮が拉致を認め、まさに180度逆転した」と語る。
「一番親近感を持って誠実に付き合ってきた新潟から、女子中学生を拉致した。その衝撃は大きく、市民の『裏切られた』という思いは、すごかったと思う」
小島さんも、その葛藤(かっとう)の中で、拉致被害者救出を訴える活動などに取り組むようになった。きょう13日、帰国事業とは何だったのかを考える市民集会を、新潟市内で開く予定だ。
◇
朝鮮半島出身の詩人で、祖国分断の葛藤(かっとう)を詠んだ長編詩「新潟」の作者、金時鐘さん(80)は、新潟市内での自作詩の朗読会から一夜明けた2日、帰国事業を記念して植えられた柳並木のある「ボトナム通り」に立った。
友好交流の印となるはずだった帰国事業。だが、開始から50年を経て、北朝鮮はある意味で、最も遠い国になってしまった。
それでも、と金さんは言う。「この柳は、政治の思惑を超えて植えられたもの。新天地を求めた在日同胞と地域住民との共感の象徴は、日本中でここ、新潟にしかない」。拉致問題始め、北朝鮮をめぐるすべての問題が解決し、この柳が再び歓喜の木として語られる日がきっと来る。そう信じている。
(この連載は、小森有希子が担当しました)
日中両政府が共同開発で合意した東シナ海のガス田「白樺」(中国名・春暁)で、中国が天然ガスの掘削施設を完成させていたことが、海上自衛隊のP3C哨戒機の監視活動で、8日までに確認された。
防衛省では「いつでも採掘できる状態」としている。
中国は今年7月、突然、白樺施設に建設資材などを搬入した。日本政府の問い合わせに対し、中国は「施設の維持管理のため」などと回答したが、その後も施設建設を続けていた。
防衛省は連日、P3C哨戒機で監視しているが、すでに高さ100メートルを超す掘削
白樺は東シナ海の大陸棚の境界として日本が主張する「日中中間線」に隣接するガス田で、昨夏、中国が開発中の白樺に、日本が出資し、共同開発することで合意した。しかし、具体策は協議されておらず、中国は今年5月、大陸棚の延伸を「沖縄トラフ(海溝)」まで求める文書を国連に提出、日本の主張を拒否する姿勢を明確にしている。
白樺で進む施設建設に対し、鳩山首相は就任直後、中国の温家宝首相に「憂慮している」と懸念を示したが、抗議はしていない。
防衛大学校の村井友秀教授(国際政治)は「中国は日米関係の悪化をにらみながら、掘削を始める可能性もある。日本はガス田に加え、尖閣諸島のパトロール活動など実効支配を強化する必要がある」と話す。
【ソウル=竹腰雅彦】北朝鮮がデノミネーション(通貨単位の切り下げ)を突然実施したのは、急激なインフレに対処する一方、国民の隠し資産や富裕層の不正蓄財、闇市場などへの統制を強化し、体制を引き締める狙いがある。
ただ、資産を事実上没収される国民の動揺は激しく、不満が拡大する可能性も出ている。
韓国政府筋によると、北朝鮮ウォンの旧通貨と新通貨の交換比率は100対1。北朝鮮国内の金融機関で6日まで交換を受け付けるという。
北朝鮮市民の中には、生活防衛のために「タンス預金」を蓄えている人も少なくない。これに対して、当局はデノミで1人あたりの交換額を制限してお り、上限額は、各世帯の月々の生活水準とほぼ同じ10万ウォンという情報もある。それ以上のお金を保有している場合、紙幣は紙くずになる。
「本当にあきれた。インチキだ」。韓国の北朝鮮専門インターネット新聞「デーリーNK」によると、市民には大きなショックが広がり、現地の消息筋は「人々が道端に座り込んで泣くのは、首領様(金日成主席)が逝去した時以来だ」と伝えてきたという。
市民は隠し資産を米ドルなどに両替するため各地の闇市場に殺到し、商店は新たな価格が決まるまで営業を停止した。再開は6日以降と見られており、市民生活に影響が広がりそうだ。
韓国統一省によると、北朝鮮は1947年、59年、79年、92年の計4回、新紙幣発行などの「通貨改革」を実施した。このうちデノミは、朝鮮戦争後のインフレを抑えるため、今回と同じ交換比率で実施した59年以来となる。
北朝鮮では、2002年に市場経済が限定的に導入され、生産者などが農産物や商品を自ら販売し、値段も決める「自由市場」が各地にできた。「市民 は自由市場で生活必需品の8〜9割を購入する」(北朝鮮専門家)までに拡大したが、これが物価上昇を招き、当初44ウォンだったコメ1キロ・グラムの価格 は2200〜2400ウォンまで高騰した。商取引を通じて富を蓄える個人も増えている。
当局は食料不足で物価が急騰した08年ごろから自由市場の統制を強め、同年後半には豚肉やコメなどの価格は下落した。今回のデノミは、国が物資の流通をより厳格に管理する狙いに加え、金正日総書記の後継体制の構築に向けて、貧富の格差に対する不満解消や、特権層の不正蓄財のあぶり出しなど、政治的な狙いも指摘されている。
一方、三星経済研究所の董竜昇経済安保チーム長は、「中国との貿易は北朝鮮の内需に直結しており、(デノミで)短期間のうちに北朝鮮の購買力は落ちる。市場の萎縮で輸入は減るだろう」と述べ、中朝貿易の縮小を通じて、北朝鮮国内で生活物資などが一段と不足する恐れを指摘した。
【ソウル=竹腰雅彦】聯合ニュースは18日、朝鮮労働党の朴南基前計画財政部長が、先週、デノミネーション(通貨単位の切り下げ)失敗の責任を問われ、処刑されたと報じた。
北朝鮮問題に詳しい複数の消息筋の話として伝えた。聯合電によると、朴氏は、デノミ失敗の混乱による民心悪化や、後継体制構築への悪影響などの全責任をかぶせられ、「反革命分子」として平壌市郊外で銃殺されたという。
朴氏は北朝鮮経済の司令塔である党計画財政部長として、2009年11月に実施されたデノミを指揮。今年1月初めまで、金正日総書記の国内視察への同行が報じられていた。