★☆救う会全国協議会ニュース★☆
(2012.08.20-2)
増元さん、市川さん新情報−増元るみ子さんを救うぞ!東京連続集会2
◆蓮池祐木子さんからの手紙増元様へ。
色々記憶をたどりながら書いたため遅くなりました。
私が北朝鮮にいた時、夜、月を見ると日本に帰れなくても、元気でいることだけでも日本にいる家族に知らせることができたらどんなにいいだろうと思ったものです。
るみ子さんが元気でいてくれて、一日も早く嬉しい知らせが来ることを待っています。るみ子さんのお母さんが元気でいらっしゃる内にできることを心から祈っています。
7月29日
この手紙を添えて回答(全文は、メールニュース24.08.10)が来ました。
その回答を、私の声では何ですから、美しい女性の声で、読んでいただきます。
朗読は桜応援団の伊原さん。増元さんが質問を読み、伊原さんが祐木子さんの返事を読む形で朗読。
西岡 私も読ませていただいて、大変心がこもった手紙だなあと思い、全文紹介したいと思ったのですが、ご本人に了承をとらなければと思い増元さんから確認の電話をしていただいたのですが、その時のご返事を。
増元 ご自宅はお留守で、薫さんに連絡しました。「ご返事ありがとうございます」と言ったら、「ああ、届きましたか」と言われました。「集会で全文を皆さんに聞いていただきたいと思うんですが、どうでしょうか」と聞いたら、「私たちがご家族にあてた手紙を、ご家族がどのように使おうと、それはご家族の皆さんの自由にしてください。私たちもこちらで皆さんの帰国が早くできるように頑張りますので頑張ってください」というご返事でしたので、感謝を申し上げて電話をきりました。
西岡 この手紙の内容について、増元さんが感じられたことや専門家の立場から惠谷さんとも議論をしていきたいと思います。
西岡 「白い椅子」ってどんなものですか。
増元 姉にも聞いたのですが、「なかっただろう」ということでこの点については記憶違いじゃないかと思います。
西岡 まず北朝鮮が言っていることをきちんと確認したいのですが。
◆北朝鮮が結婚年月日を単なる勘違いと訂正増元 79年10月25日まで一緒にいたということは、北朝鮮が、姉と市川修一さんが結婚したのは1979年4月と言ってきました。それなら79年4月に結婚する筈がないと思い、政府に伝え、北朝鮮にもそういう質問をしました。そしたら、79年7月に結婚したと訂正してきました。
横田めぐみさんが、(北朝鮮が伝えた死亡日の)翌年の3月まで生きていたという質問とともにぶつけたら、めぐみさんの訂正は、単なる勘違いと言ってきましたが、姉の場合は79年4月ではなく7月と言ってきました。
しかし10月まで祐木子さんと暮らしていたのですから合ってない。今考えると、西岡さんが出した情報では80年7月に結婚を承認したとなっていますので、それが念頭にあって7月にしちゃったのではと思いました。
それでも79年ではつじつまが合わないのですが、それだけいい加減ということです。
西岡 北朝鮮の主張については、「市川修一・増元るみ子さん情報」にありますが、「1979年7月に結婚」したと今、北朝鮮は言っています。しかし、先ほど増元さんが言ったように、最初は「79年4月」と言いました。
つまり、79年9月に市川さんが死亡したと言っているので、その前に結婚させなければいけない。79年10月まで蓮池祐木子さんが一緒にいたと証言したために7月まで延ばしたがそれでも合わない。
増元 めぐみさんについてはしっかり変更し、るみ子についてはいい加減だった。その時既にめぐみさんがメインだった。
◆蓮祐木子さんと3つの招待所で約1年住んだことが明らかに西岡 というより、市川さんが79年9月4日死亡ということ自体信用できないということですよね。実際は(祐木子さんと別れた)79年10月以降に結婚したということで、79年9月に死んだ人とは結婚できない。結婚の時期が市川さんの死亡の時期と関係するわけで、このことは重要です。
今回明らかになったのは、ほぼ1年一緒にいたこと、また1つの招待所ではなく3か所だったということです。1つ目が平壌駅の近くのアパート、2つ目が冷泉(レンチョン)招待所、3つ目が順安(スナン)招待所です。
増元 平壌駅の近くのアパートに行くまで(拉致されてから)2か月くらいあります。この間は南浦、清津、互いにどこにいたのでしょう。
西岡 そこは分からないです。ただ、二人一緒になって3つの招待所で約1年住んだことが今回明らかになった。祐木子さんの手紙ではレンチョンとカタカナで書いてありましたが、これがどこなのか惠谷さんに調査を依頼しましたのでご説明をお願いします。
◆拉致後約2か月落ち着かせ惠谷 るみ子さんが南浦に到着するのが8月15日または14日。通常、拉致被害者は、即平壌に連れていかれます。これは清津についても同じです。そして、平壌の一番いい招待所に入れるのが通常です。興富(フンプ)招待所かなと思います。
その招待所で取り合えず落ち着かせる。手紙では。「るみ子さんはその間に『金日成将軍の歌』を覚えた」とありますから、落ち着いた状況が見られます。そして秋に平壌駅の近くのアパートに行かされた。私は平壌に行ったことがありますから、あのあたりのアパートかというイメージはあります。高級な感じのところです。
そして正月が開けて、冷泉招待所に移された。実は今日調べてほしいと言われて、慌てて調べました。平壌市の東の東大院区域に冷泉1洞と2洞があります。証言では「郊外」とあります。今はある意味で市街地ですが、1979年当時はかなり田舎だろうと思います。中央党幹部が住むアパートから見れば、彼女は郊外という印象を持ったのではないかと思います。
その後、順安招待所に移りますが、順安は国際飛行場があるところで、そこよりもっと北に招待所があります。1年で3回移転させたのは、北朝鮮流のやり方で、何を考えているか分かりませんが、とにかく自分の位置を悟らせないという意識があると思います。だから転々とさせる。
ある地点に向かうのにも、車で同じところをぐるぐる廻って、そうすれば位置が分からないだろうと彼らは考えるのです。
また1年で3回移転させたことですが、北朝鮮には招待所が無数にあります。そこのまかないのおばさんたちに仕事を与えるためという考えもあるかもしれません。失業対策のような。色々な証言を見ると、しょっちゅう移動させられているようです。
西岡 るみ子さんの印象を、「優しい。おだやかな性格」と言っていますが、そういう人だったのですか。
増元 配布資料(24.08.10メールニュース参照)に姉、平野フミ子からのメッセージもありますが、「純真でやさしくて」という感じを書いていますが、私にとっても、大学から帰る時は必ず姉が飛行場との送迎をやってくれましたし、天文館で飲んだくれたら必ず、午前様でも必ず迎えに来てくれました。文句も言わずにただ笑っていました。
西岡 「最初はずっと泣いていた」、「洋服ダンスの中で泣いていた」とありますが、よく泣かれる人でしたか。
増元 泣き虫でしたね。怖がりというか。どんな女性でも泣くでしょう。気丈な女性なら食ってかかるかも知れませんが。無理矢理北朝鮮に連れていかれたら泣かない人はいないでしょう。
西岡 家族のことはその通りですね。お父さんが公務員とか。
増元 祐木子さんがよく覚えていたなあと思います。社宅に住んでいたんですが、「定年退職したら指宿に」という部分は、姉と話したのですが、「そんなこと言っていたかなあ」と言っていました。ただ、失踪後、父が方針を転換したのだろうと思います。
今の姶良(あいら)市というのは、鹿児島市からは少し離れていますが、当時鹿児島市内は地価が高くて、退職金では買えませんでした。指宿なら2時間くらいかかります。父は自転車で通勤していたようですが、あまり鹿児島市から離れたくなかったのかなと思います。
るみ子とはよく話をしていましたが、姉のフミ子とはあまり話をしていませんでしたので、そういうこともあったのかなと思います。
◆小船の高さ1〜1.3m、幅1メートルに押し込められたまま北へ惠谷 着いた時の話ですが、南浦にるみ子さんが着いた時、足を痛めていて指導員に抱えられて、と記憶していますがそうですか。
増元 そう聞きました。鹿児島から、中国に近いところまで行って、南浦に入ると2日、48時間以上かかると。小さな船倉に同じ姿勢で閉じ込められています。日本にいた時も多少腰が痛かったようですから、そういう姉が48時間以上も船倉に閉じ込められていたら足腰が立たなくなって、腰がさらに悪化したんだろうなと、この手紙を読んで、私は感じています。
惠谷 なぜそれを確認したかというと、色々な証言があります。拉致をする時は工作母船で移動します。その船倉に小型の工作小船を格納します。拉致をしらた、工作小船は母船の後ろからそのまま格納庫に入り、後ろを閉じます。そして母船が猛スピードで帰ってきます。
るみ子さんは、その小船にある、本当に狭い所、高さが1メートルから1メートル30センチくらい、幅が1メートル前後のところに押し込められるのです。そしてふたをする。食料、水は時折運ばれるわけですが。
めぐみちゃんもおそらくそんな所で、(壁を)「かきむしった」ということです。海上だから逃げることはできないのに、小船の狭い所に押し込めたまま連れていかれたために、降りろと言われても足が動かなかっただろうと思われます。
これは、身体のショックと同時に、物理的に体が自由にならない、おそらく真っ暗な中で連れていかれる恐怖を考えると、本当に耐えられないと思います。
西岡 そうすると、母船の中の船倉ではなく、ゴムボートから小船の船倉に入れられたままということですか。
惠谷 色々な証言を重ねるとそうです。これはある意味で工作員側から見ると合理的です。拉致は3段階方式でやります。海岸からはゴムボートで沖合いに出ます。ある程度行くと、小船という漁船に似たようなのが待っています。小船には魚網を入れるような小さな倉庫があり、そこに入れたまま母船の後ろから入っていきます。
小船が格納されたら閉じて母船が猛スピードで北に向かいます。この時、小船を母船に格納したま連れていかれたということが確認できるのがこの証言です。
◆「一緒に来た恋人は必要ないので日本に返した」とあきらめさせる西岡 祐木子さんは、「一緒に来た恋人は必要ないので日本に返した」と言われた。「るみ子さんからも、同じようなことを聞いたような気がします」とありますね。これは皆同じですね。蓮池薫さんも、地村保志さんも、逆のことを言われています。
つまり一緒に襲われ、別々に連れていかれたわけですが、2隻の船で連れていくわけではないので、ゴムボートは2艙あったのか、1隻だったけどお互いの気配がしないように連れて行くことができるのか。どちらにしても小船の船倉が複数あって、別々に入れられるということですか。
惠谷 小船の船倉が仮に一つであっても、運転台のところが高いので、そこも船倉の代わりになります。ボートが2艙ということはありません。必ずさるぐつわをはめ、袋をかぶせますので、近くにいたとしても分からないようにします。
西岡 祐木子さんは、「柏崎の夕陽が見えた」と証言していますが。袋の中ではなかったことになりますが。
惠谷 本人に確認できればいいと思いますが、袋の中から見たのではないと思います。
西岡 とにかく、めぐみさんと同じように本当にひどい目にあって連れていかれたということですね。だからこそ直後は泣いていた、と。閉所恐怖症、暗闇恐怖症のようになっちゃったんですねえ。
増元 可能性はありますね。前に話したと思うんですが、高校生の時に、おそらく部活動の帰りでしょうが、まだ当時街頭があまりなく、バス停から家に帰る時、少し暗がりの所で中学生か高校生の男の子にスカートを上げられたことがありました。それで泣いて帰ってきたことがあったんです。それぐらいで泣く高校生だったんです。
そのまま大人になったようなものでしたから、こんなに怖い状況に追い込まれたら、それは泣きますよね。
(3につづく)
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