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- 2021.04.19 Monday
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忠清南道礼山に生まれた。1931年上海に渡って金九の組織した抗日武装組織韓人愛国党に参加し、事件を準備した。
第一次上海事変停戦交渉の最中であった1932年4月29日天長節(天皇誕生日)の日、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典会場に爆弾を投げ爆発させる事件を引き起こした。上海派遣軍司令官陸軍大将白川義則、上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次を殺害し、第3艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎、第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在総領事村井倉松、上海駐在公使重光葵、上海日本人居留民団書記友野盛ら多数に重傷を負わせた。1945年9月東京湾のミズーリ艦上で行われた降伏式典で降伏文書に署名した外相(当時)重光葵が杖をついているのはこの事件で片足を失ったためである。
尹奉吉は現場で取り押さえられ、5月25日上海派遣軍軍法会議で死刑判決を受けた。11月18日 大阪へ移監。12月18日陸軍第9師団の駐屯地である石川県金沢市へ連行。練兵場のある市内、三小牛山で12月19日7時27分銃殺刑に処され、隣山である野田山の金沢市共同墓地に埋葬された。
尹に爆弾テロを命じた金丸一派及び李裕弼一派は、在上海江西路角東北義勇軍後援会幹部朱慶欄(ヂュ・チンラン、中国国民党委員会員)より報酬として2万8千円を受領した。
遺骨は1946年3月6日に在日韓国・朝鮮人によって発掘され、京城(ソウル)で葬儀を挙行した後、国立孝昌墓地公園に改葬された。韓国政府は1962年建国勲章を贈り、独立運動の義士として顕彰し、独立記念館に祀っている。
神奈川県下の朝鮮学園関係者と朝鮮学校を支援する団体代表ら32人が19日、朝鮮学校生徒への「高校無償化」適用を求める首相、文科相に宛てた要請書を、参院議員会館で那谷屋正義参院議員(民主党)にそれぞれ手渡した。
要請書を提出したのは、神奈川朝鮮学園、「神奈川朝鮮学園を支援する会」、「日朝国交正常化を進める神奈川県民の会」、神奈川県朝鮮人強制連行真相 調査団の4団体。要請書は、「文科省の公正、厳粛な審査の結果として朝鮮学校への『高校無償化』適用の発表が速やかになされることを今一度、強く要請す る」と強調した。そして、神奈川朝鮮中高級学校の生徒代表(張晟嶺、金穂香)が、県下同胞や朝鮮学校生徒、日本市民らが集めた1万9千384筆の書名を伝 達した。
朝鮮学園関係者と支援団体の日本人士らが発言した後、那谷屋議員が発言した。那谷屋議員は、朝鮮学校卒業生が日本社会に貢献している事実や雨の中で 署名活動をしていた朝鮮学校生徒の体験、オモニ会をはじめとする保護者の国連での活動、朝鮮学校を支援する人々の話などを聞き、「関係者らの話を聞くと胸 に迫るものがあり、困難な課題(無償化問題)にもストレートに向き合っていきたい。(朝鮮学校生徒が)晴れて卒業できるよう、がんばりたい」などと語っ た。
この日議員会館を訪れたのは、神奈川朝鮮学園の理事、神奈川、川崎、横浜、南武の朝鮮学校校長、オモニ会、生徒、保護者代表、そして神奈川県教職員 組合、神奈川県高等学校教職員組合、「神奈川朝鮮学園を支援する会」、「日朝国交正常化を進める神奈川県民の会」、神奈川県朝鮮人強制連行真相調査団、神 奈川人権センター、神奈川I女性会議の代表ら。
一方、同日、李博之理事長をはじめとする愛知朝鮮学園、愛知朝鮮中高級学校、同校オモニ会の代表ら6人が参院議員会館を訪れ、首相、文科相に宛てた 要望書を那谷屋正義参院議員に伝達し、1万596筆の署名を手渡した。要望書は、▼文部科学省が定めた「規定」に従い、速やかに朝鮮高校生徒への「無償 化」適用を最終決定し、▼2010年度分「就学支援金」を遡って適用する措置を講ずるよう訴えた。
(李東浩絵本でつなごう子どもの心
未来を担う子どもたちの間に、友好と平和を願う気持ちと、真の信頼関係を深めようと、日本・南朝鮮・中国の絵本作家と出版社が共同で「平和絵本」をシ リーズ化する企画を進めている。呼びかけたのは、田島征三・田畑精一・浜田桂子・和歌山静子ら第一線で活躍する日本の絵本作家たち。05年に中国、06年 に南朝鮮の作家たちに企画を持ちかけた。
子どもの心に直接働きかける絵本という媒体を使って、この地域の作家たちが心を一つに寄せ合い、共同作業に取り組むのは絵本史上初の試みだ。作家と編集者たちは、言葉や文化の違いを越えて、時間をかけて会議を重ね、出版の準備を進めてきた。
日本では今春、童心社から「へいわってどんなこと?」「非武装地帯に春がくると」「京劇がきえた日」の3冊が発行された。
「へいわってどんなこと?」
浜田桂子 作(1575+税) |
戦争をしない、爆弾なんか落とさない、家や街を破壊しない。真っ黒な空を覆う飛行機の黒い影や、廃墟となった街とは対象的に、大好きな人の側にいられ る、お腹が空いたらご飯が食べられる、朝までぐっすり眠れる…といった、4〜5歳の幼児から「平和」について具体的なイメージが膨らませられるよう丹念に 描かれた。
お母さんの温かい懐に抱かれ、友達と一緒に勉強したり、思いっきり遊べる子どもたちの幸せそうな笑顔が輝いている。
巻末を飾る「平和って、ぼくが生まれて良かったっていうこと」「君とぼくは友だちになれるっていうこと」の言葉が心に響く。身近な日常から、平和の意味と、守らなければならない大切な命について考える。
「非武装地帯に春がくると」
リ・オクベ 作、おおたけきよみ 訳(2100+税) |
1953年7月27日、朝鮮停戦協定が結ばれると、軍事境界線を境に南北それぞれ2キロメートルずつのところに何重もの鉄条網が張りめぐらされた。その 鉄条網と鉄条網の間が「非武装地帯」だ。人々の立ち入りが制限されたため、そこには絶滅の危機に追いやられた動植物がたくさん生息している。
絵本は、非武装地帯の四季の移り変わりと、北の家族を思い展望台に上るハラボジの姿を描いている。非武装地帯が作られて今年で58年。周辺に埋められた 数え切れないほどの地雷と兵士らが構える武器の数々を取り除き、朝鮮半島を南北に隔てる鉄条網をはずさなくてはならない。本には、別れた家族が再会し、郷 土をあらゆる命が幸せに暮らしていける「平和と命」の地に戻したいとの願いがぎっしりと込められている。
「京劇がきえた日」
ヤオ・ホン 作、中田美子 訳(1890+税) |
中国の伝統的な演劇である京劇にふれ、夢中になった女の子。しかし、戦火が近づき、名優は町を去り、公演を観ることはできなくなった。その後、たくさんの家が壊され、たくさんの人が殺された。1937年 12月の「南京大虐殺」だ。
日本軍は、武器を持たない普通の人々に対して、人類史上最悪ともいわれる蛮行を行った。京劇に夢中になっていた人たちも命を落とし、青年たちは銃を取っ て戦場へと急いだ。戦火で肉親が離れ離れになったいくつもの家庭は、その後どうなっただろうか。戦争は、人々から生活と文化を奪うものなのだ。
◇ ◇ ◇
「平和絵本」シリーズは、3カ国の作家それぞれ4人が、それぞれの国、それぞれの言語で、全12冊の絵本を刊行しあう。日本でも童心社から9冊が出版される予定。
絵本は、一般書店のほか、コリアブックセンターでも注文できる。
問い合わせ コリアブックセンター TEL 03・6820・0111 FAX 03・3813・7522 Eメール=order@krbook.net
■「ぼくのこえがきこえますか」 田島征三 作
戦場で砲弾に吹き飛ばされたぼくの体は飛び散り、足もお腹も、顔もなくなった。でも、ぼくの心は弟の怒りを見、母さんの悲しみを見る。憎悪と復讐がどれだけむなしいものか。戦争がどれだけ無残なものか。「ぼくたちの声は、生きているみんなに聞こえますか?」
■「しりませんでした」 和歌山静子 作
幼かった私は、知らなかった。自分の国や軍隊が、アジアの国々で何をしていたのかを。海のむこうの国々で、たくさんの人を殺してきたことを…。人々の生活をふみにじる軍靴を戦争の象徴とし、ほんとうの戦争を知らなければならないという思いを描く。
■「さくら」 田畑精一 作
桜の花が咲く春に生まれたぼく。その年に日本の侵略戦争がはじまり、教科書も新聞も戦争の色にぬりかえられた。ぼくも桜の花のように美しく散れ、死ねと 教えられる。戦争が終わり、大勢の人が死んだ。大人になったぼくに、桜の老木が語りかける。「戦争だけは絶対にいかん!」と…。
■「コッハルモニ―花のおばあさん」 クォン・ユンドク 作 ピョン・キジャ 訳
13歳で日本軍慰安婦として連れていかれ、ひどい苦しみをうけ、人生のすべてを失ってしまったコッハルモニ。数十年の時が流れ、人々との出会いによって、ようやく心の奥底にしまいこんでいた過去を語り、歴史の証人となった。
■「チュニというあかちゃん」 ピョン・キジャ 文 チョン・スンガク 絵
チュニは40歳。でも赤ん坊のようにおむつをつけて横たわり、お母さんにお世話してもらって暮らしている。徴用されたお父さんを探すため、広島に行ったお母さんのお腹の中で、原爆の放射能を浴びたのだ。そんな悲しい物語を、10歳の女の子の目をとおして描く。
■「少年十字兵」 キム・ファンヨン 作 おおたけきよみ 訳
戦争で孤児になった子どもたちが、行列をなして道を進む。銃声と砲火を避け、安全な場所を求めて歩いていくのだ。寒い冬の吹雪の中、お腹をすかせたまま、休みなく歩き続けるこの子どもたちは、はたしてもとめる場所にたどりつけるのだろうか。
■「二まいのふるい写真のものがたり」 岑龍(ツェン・ロン)作 中由美子 訳
1930年代、作者の父は日本で学び、日本人と友情を結んだ。その後、中日戦争が勃発した直後に帰国し、爆撃で家族を失った。間もなく、日本人の友人も戦場で死んだという知らせを聞く。家族も友人も奪った戦争の悲劇を伝える。
■「街のおもいで」 蔡皋(ツァイ・ガオ)作 中由美子 訳
1938年、歴史ある街・長沙が大火に遭い、悠久の文化がまたたくまに火の海に葬られた。この作品は、美しい街並みとそこに生きる人々、そして、火に包まれ変わり果ててしまった街を描き、戦争がもたらすことについて問いかける。
■「きれいなくだもの」 周翔(ヂョウ・シァン)作 中由美子 訳
ひとつのくだものが芽を出し、大きくなり、いい音色を響かせた。すると、いろんな表情で笑っていたお父さんたちが、まるっきり同じ顔をした兵士になって、戦場へつれていかれ…。作者は寓話のような物語を通して、どうやって戦争を防ぐかを語る。
[朝鮮新報 2011.5.20]
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※ 朝鮮新報は北朝鮮の代理人たる朝鮮総連の機関誌である。従って朝鮮新報が好意的に書くということは北朝鮮の息がかかっている怪しげな絵本かグループであることを意味する。
70年代の態度軟化は「赤化統一」が狙い、外交文書で北朝鮮の思惑判明 |
OCTOBER 16, 2012 08:40 |
1971年の米中関係改善を機に始まった南北の対話モードは、1972年の7・4南北共同声明で頂点を迎える。しかし、朴正熙(パク・チョンヒ)政権は 1972年10月17日午後7時、戒厳宣言と憲法廃止、国会解散、大統領間接選挙制の導入などを骨子とする維新体制を宣言する。ちょうど40年前のこと だ。
当時、韓国の敵国である北朝鮮、そして同盟国である米国は、意外にも「沈黙モード」を守った。特に北朝鮮は、維新当日の午後、朝鮮中央通信 を通じて形式的な批判をしたが、北朝鮮の最高指導機関である労働党中央委員会は、労働新聞の論説を通じて維新宣言を公式に非難するかどうかをめぐって内部 で激論した。
15日、ウッドロー・ウィルソンセンターと慶南(キョンナム)大学極東問題研究所・北朝鮮大学院大学が発掘した旧東ドイツの北朝鮮外交文書 によると、リ・マンソク北朝鮮外交部副部長は同年11月8日、平壌(ピョンヤン)駐在の東欧の外交官たちに、「(労働党中央委員会は)韓国の非常戒厳措置 を非難する論説を発表する当初の計画を変えた」とし、理由をこのように説明した。
「北朝鮮が南朝鮮の非常措置を批判すれば、野党がさらに弾圧を受けることになり、そうなれば平和統一と『南朝鮮革命』を展開する地位と空間 を失うことになる。辛うじて開かれている対話の扉が再び閉じられ…反政府団体が活動を展開できるすべての機会を喪失することになる。南朝鮮はやむを得ず北 に扉を開いており、7・4共同声明の合意原則を撤回して門戸を閉じる名分を探している。彼らにいかなる口実も与えてはならない」。
北朝鮮は、1971年6月から始めた対南平和攻勢(peace offensive)を維新宣言後も継続することを決めたのだ。金日成(キム・イルソン)主席は、「対南平和攻勢の目的は、南朝鮮との対話を通じて内部、 革命力量を育てて赤化統一を成し遂げることだ」と説明した。
東ドイツの外交文書によると、1972年11月28日、リ・ジンモク北朝鮮外交部副部長も平壌駐在の東欧大使らに「南朝鮮社会を民主化さ せ、朴正熙政権の二重的な策略を崩壊させるために、南朝鮮が門戸を閉じることができないようにし、持続的な圧力を通じて扉を開けておかせる」と強調した。
韓国も北朝鮮との対話を望み、南北調整委員会を通じた対話は1973年6月まで6回続く。文書発掘作業を主導した辛鍾大(シン・ジョンデ) 北朝鮮大学院大学教授は、「韓国は、朴正熙政権の延長と北朝鮮との体制競争のための時間稼ぎ、北朝鮮は、韓国革命と朴正熙政権の打倒という、異なる目的の ために対話を望んだ」と説明した。
当時、米国が韓国の維新体制に対して「沈黙」し、不干渉の原則を堅持したのは、「韓半島安保」を考慮したためだった。米中央情報局 (CIA)と国務省、国防総省が10月26日に作成した報告書は、米国が公式に反対する場合に発生する朴政権に対する国内外の反発を北朝鮮が悪用する可能 性があると指摘した。
維新体制の副作用を予言した報告書の鋭い洞察力は注目される。報告書は、「相対的に先進化し、躍動的な韓国社会で、政治的時計の針を回そう とする試みがどれほど成功するのか懐疑的だ」とし、「(国際舞台での外交問題に)軍部と官僚の不満が加わり、国内の政治状況にも悪影響を及ぼす相乗作用が 起こるだろう」と見通した。
一方、米国務省は1973年3月5日に作成した機密文書で、1972年12月にそれぞれ発表された韓国の維新憲法と北朝鮮の社会主義憲法が 独裁政治をさらに効率的にするために作られたという点で基本的に似ていると見た。1972年11月14日、駐韓米国大使館は、朴大統領が作った「統一主体 国民会議」の「主体」は、事実上、金日成主席の「主体」と同じ民族主義的概念という電文を本国に送った。
40年前の10月の維新をめぐる南北と米国の3角関係を証言した文書は、米ウッドロー・ウィルソンセンターと韓国の慶南大学極東問題研究
所・北朝鮮大学院大学が2006年から進めてきた北朝鮮外交文書発掘事業(NKIDP)を通じて入手された。辛教授は、重要内容を「維新体制の樹立を見る
北朝鮮と米国の見解と対応」という論文で、高麗(コリョ)大学アジア問題研究所の「アジア研究」を通じて近く発表する予定だ。 |